地獄の業火で会いましょう。
ゴシップ。
人間が存在する以上
世界から争いがなくならないのと一緒で
飲み屋から永遠に消滅することのない主題。
誰が浮気したとか不倫したとか
誰が補導されたとか捕まったとか
裁いたり、コメントを求められる仕事にもなく
当事者でもないのに滅茶苦茶叩く人は自らは、どれほど清廉潔白な人間なのだろう。
そもそも、関わったことのない人間の人格なんて分からないんだから第三者は何も分からないじゃないか。
一度きりの過ちでその人の人格を全否定する人間は、どれほど罪の思いに汚されていない情の持ち主なのだろう。
殺人とか強姦とかそういう規模の犯罪や
元々、人格が破綻し尽くした人間を擁護したいわけじゃない。
当事者間で解決できる話に首を突っ込みたがる人の話だ。
ヨーロッパ建築を見るならキリスト教に関する知識は必要だろうと宗派問わず勉強していたら
人間の罪に興味が湧いてきて
アダムとイーヴによる人間の最も古い罪を題材にしたミルトンの『失楽園』や、罪を犯したものを待ちうける地獄が描かれたダンテの『神曲』や、それこそドストエフスキーの『罪と罰』を読んだ。
『神曲』は啓示の書でもなく、ダンテが描いたものだから主観丸出しで、彼が敵対してた政党の人とか個人的に嫌いだった人とかまさかの恩師までも物語中では勝手に地獄に落とされていて、それがイジメられっ子が想像の中でイジメっ子をボコボコにしてるみたいで面白いんだけど。
ともかく、これから壮大な犯罪を行おうとしている人みたいな本棚が完成したわけだ。
一通り読んだ僕の思いは
もし、この通り死後の世界が待っているとすれば
また、この通りの基準で審判が下るとすれば
人類の9割くらいは地獄に落ちる。
少なくとも僕の知ってる人はパパもママも友人もみんな地獄行きだ。
もちろん僕もね。
僕は知らないこととかやったことないことに対する好奇心が強くて、これはどちらかといえば数少ない僕に備わる美徳だと思っていたんだけど
モンテーニュは知識と学問を増やそうとする心遣いこそ人類を永遠の呪いの淵へと落としたものだと言う。
だから「自信満々で私は好奇心旺盛で何ごとにもぶつかっていくタイプです。」って自己アピールを披露しても面接官がモンテーニュだったら頬を平手で打たれて不採用だ。
お世辞ばっか言って媚びへつらって生きている人は地獄で糞尿の中につけられて苦しみ続ける。
彼氏持ちの女の子と付き合いたいからマンネリ化してる所に優しく近づいてそんな奴捨てちまえよと別れさせる男も中傷分裂の罪で地獄では自分の体を斬られて、自身を分断されて苦しみ続ける。
(彼氏持ちの女の子、彼女持ちの男の子と付き合いたいがためにこうなるかもしれない。)
ミルトンに習えば
神は人間を自由な存在として創られた。
(それがゆえにイーヴは禁断の果実を口にした)
だから、自分で選択するという与えられた権利を使わず、人に流されてばっかの人も僕からしたら地獄行きです。
(ダンテみたく僕の頭の中ではね。)
はじめはダンテと共に哀れみの目を持って地獄の階層を一つ一つ降りて、悲惨な光景を眺めていた僕は次第に思い当たる罪状が多すぎて途中から将来住む部屋の内見に来た人みたいに地獄の水回りや防音性が気になりだしたのでした。
不信心な僕は希望的に捉えても、もう地獄行き決定です。
だから、現世を目一杯、自分の生きたいように生きます。
とやかく他人のゴシップに物申す立場にもありません。
皆さん、いつか地獄の業火でお会いましょう。
それじゃあ。