22歳の男の濁った目

汚れた目から世界を見てます。

自分探しとかそういうのを辞めた日

最後の記事です。


スペインには三週間いました。


最初の4日間をバルセロナで過ごしたあと

マドリードに向かい

ヘミングウェイが、『日はまた昇る』や幾つかの短編の題材にもした闘牛をラスベンタスで観戦しました。


時代と共に残酷だという機運が高まり

国内でも何箇所かでしか観れなくなってしまってるので、観れるうちに観ておきたかったのです。


観終わった後、しばらく佇んでいました。

感無量でした。


ずっと小説の中の世界だったものを観れたからです。


闘牛士がムレタ(赤い布)をヒラヒラするイメージだけが強く根付いていて

闘牛が牛を殺すこと自体、あまり知らない人も少なくないでしょう。



闘牛は牛と闘牛士の魂の駆け引きです。

まず、牛は赤いものに興奮すると思ってる人もいるかもしれませんが、あの牛は色盲です。


動くものに突っ込んでいくのです。

動かないものに突っ込んでいくと壁や岩にぶつかり角が折れることになるので、絶対に動かないものには突進しないようになっています。


その習性も、イベリア半島で闘牛のために育てられた牛にだけ備わっています。


すなわち、闘牛のためだけに生まれた時から牧場で育てられているんです。


その牛の習性を利用して

まずは目隠しをした馬にのった槍うちが

馬を動かして、牛を馬の横腹に突っ込ませます。

馬がかち上がると同時に

牛の肩甲骨あたりの筋肉に槍を二本馬上から突き刺します。


すると牛は頭が上がらなくなり、これ以降は頭を下げたまま突っ込むことになります。


そうしないと闘牛士の横を走り抜けさせた時に頭の縦軸の動きがあると闘牛士の心臓を突き刺されてしまうことがあるからです。


ちなみにこのやり方に落ち着くまでに100年かかったといわれてます。

たくさん死んだでしょうね。


その後短い銛を突き刺さします。

6本のうち4本ささるといよいよ

日本でも馴染みのあるマタドールの赤いムレタを使うフェイズに移行します。


ちなみに牛は賢い生き物で

自分が攻撃されていることに気づいて

きっかり15分たつと防衛本能が働いて

壁を背にしたまま動くものに一切攻撃しなくなります。


こうなると闘牛のために育てられた牛がただの牛になってしまいます。


闘牛は闘牛と闘牛士の命の駆け引きなので

こうなると牛は屠殺場に連れていかれ食肉加工をうけます。

また、牛に対する非礼として闘牛士には100〜1000万円の罰金が課せられます。


ムレタを使い牛を行きたくない方向へ誘導し

パフォーマンスが終わると

真実の瞬間と言う牛を葬る瞬間に移行します。

ちなみに闘牛士の剣は歪んで作られていて

真っ直ぐにささないと刺せないようになっています。


なのでこの時はマタドールは赤い布を使い、すれ違いざまに真っ直ぐ牛の首元を刺さなくてはいけません。

ビビって避けたら上手くいかないようになっています。


上手くいくと長い剣の握る部分以外は牛の体内に刺さり、牛は30秒ほど動いたかと思うと急に絶命します。


上手くいかないと何度もブスブス突き刺すことになり大ブーイングがおきます。


真実の瞬間にはブーイングやヤジが一切なくなり二万人の闘技場が静寂につつまれます。


全ては命に対するリスペクトからです。

牛は殺された後、ロバにひきづられていきますが皆、スタンディングオベーションで送り出します。


文字通り皆です。怠いと座ってる人はいませんでした。


これが6試合あります。

日向席と日陰席があり、日陰席の方が値段が高くなっていますが

たいてい17.18時から始まり6試合が終わる頃には日が落ちていて全て日陰席になります。


生を象徴する日光があたらなくなり、闘牛のおわりを意味するように設計されています。

そしてまた次の日には日が昇ります。

命の移り変わりを表しています。


どこまでも動くものに果敢に攻撃する牛と

勇敢な闘牛士の命の駆け引きが合わさり

初めて素晴らしい闘牛になります。


だから、ブーイングがない試合はほとんどありません。


日本で牛といえば鼻息荒く脚をかいているイメージですが、

脚をかくのは牛の警戒態勢なので

あれは駄目な牛なんですね。

そんなんしないで、突っ込まなきゃいけないんです。



ラスベンタス闘技場の外には

20か21歳で牛に心臓をつかれて死んだ伝説的な闘牛士の像があります。


彼のマネージャーは自分の家族そっちのけで彼をスターにするため、9歳の時からあらゆる巡業に連れて行ったりして英才教育をしたらしいですが

19だかでスターになりその直後に死んでしまいました。


その後、マネージャーも後を追って自殺しています。



確かに残酷かもしれないけど

命へのリスペクトと歴史を踏まえた上で

どちらかの立場をとるのが大切だと思います。


そこまでの心血を注げるものに出会えた人は

それが何でありやはりカッコいいですよね。



一人旅を通じて思ったのは

自分なんて存在しないこと。


若者は無限の可能性を秘めているとか

過度に人の個性を称賛する流れのせいで


個性とか自分らしさに悩む人がいます。

僕も言葉通じない中、笑顔でおじいさんにラグビーやってたってだけで滅茶滅茶食べさせられて

バルセロナで朝8時にゲロ吐いた時悩みました。



ただ、自分らしさとか個性って他者の関わり合いによって浮き立つものですよね。


だから、そこを理解しないで飛び出して

探しても自分なんてはなから存在しないんだから

何も見つからないはずです。



日本で見つからなかったのに

どっかで見つかるわけないし

そういう人が

見つけるのは自分じゃなくて

異国にいる日本人っていう特徴にしか過ぎないと思います。


楽しい事してる時は難しいこと考えなくて

いいですよね。

楽しいって遊びだけじゃなく。

ショーペンハウエルは宗教が自分と向き合うことから逃げださせているって言ってましたけど


僕は逃げていいんじゃないかって思います。

そん中で自分を定義づけてくれる

仕事とか仲間とかを選んでいって

そういう関わり合いによってしか

自分は結局定義できないと思うんで



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おわり。