22歳の男の濁った目

汚れた目から世界を見てます。

タイにて。③

釣り堀で使用される餌は

大量のパン屑に集魚液を浸したもので

それを手で練りこんで

サビキの要領でハリスの上にあるカゴを覆うよう

おにぎりほどの大きさに丸め込む。

下のハリスには食パンを半分ほどの大きさに

ちぎったものをつけ

それを先ほどのおにぎりほどのパン屑の外側に埋め込む。


必然的に糸の先にはただソフトボール大のパン屑がぶら下がっているように見える。



投げ込まれたソフトボールは水中でだらしなく瓦解をはじめ

埋め込まれていたハリスが姿を現して漂いだす。

浮遊するパン屑に吸い寄せられた魚は

同じように水中を漂うハリスの先につけられたパンを勘違いして飲み込むようになっている。




ソフトボール大のパン屑はジグヘッドと異なり

不安定で重く真っ直ぐ飛ばすのが難しい。

また丸め方が甘いと空中で分解して

パン屑は思い思いの方角に向かって着水することになる。



釣りの技巧としてはまず最初に仕掛けの選定が重要になる。

釣りをしたことがない人間は釣りが上手いというとしゃくりや、遠投をイメージするが

それは狙った魚に適した餌と仕掛けが大前提となっている。

用いる仕掛けによってそうしたアプローチの仕方は異なる。

だから釣り人への第一歩としては魚と地形、それに合わせて仕掛けを選ぶことが重要になる。

これは教科書に書いてある知識事項とは異なり自分で体得していくものだ。




何度も投げているうちに餌の取り付けも上手くなってきたが、一向に食いつく兆しは見えない。


資金難からガイドを断っていたが

わざわざ遠く島国からタイまで来てパン屑を川に撒き散らして帰らせるのは可哀想だと思ったのか

見兼ねたガイドが来て一度、餌付けからキャストまでをやってくれた。

彼は我々が5分くらいかかる餌付けを手際よく30秒ほどで行うと、対岸のコテージのやや前方の巨大魚が潜んでいる場所にいとも簡単にキャストした。


老人と海』の主人公サンチャゴのように

彼の顔には長年の日焼けからか、いくらか皺が入っていて、何も言わずとも釣り人としての経験を物語っていた。


昔、顔は男の人生の履歴書と言ったものだ。


日焼けサロンに通いつめて紫外線を受けて機械的な時間管理で焼かれた肌は、まるで植林されてから枯れるまで防虫剤をふりかけて管理し尽くされる道路脇の街路樹のように一元化され、樹齢を刻み込んだ味のあるは大木のようだとはいえない。


ネイティブ・アメリカンについて扱った文献、小説を読むと老人の顔の皺について、それを単に美の退廃としてではなく、知や経験を物語る畏敬の対象として捉えていることが分かる。




サンチャゴが投げたあと、浮きを眺めていると、濁り切った川面の下に吸い込まれるように消えていった。


大抵、魚がかかると浮きは、水面下の魚の必死の抵抗を表して沈む前に一定のY軸運動を見せたりするものだが、ひっそりと不気味にその浮きは沈んだ。


慌ててロッドをたて、リールを巻いてラインをたぐりよせると、右手にずっしりとした重みを感じて初めて糸の先の何かの存在を感じた。


岩場はなく、下が砂地なので、魚が潜り込む場所がないというのも大きいのか、針の先の何かが暴れ回っているのが竿伝いに分かるような感触もなかった。


こんな経験は初めてだった。

リールを巻く度に確実に近づいてくるものが魚ではなく、得体の知れない別の何かなのではないかという不安は、それが水面に表れるまでの間、胸の中に先ほどのパン屑のソフトボールほどの大きさにまで膨らんで拭えなかった。



ラインを手繰り寄せているとそれは姿を現した。

60cmほどの淡水魚だった。

タモですくいあげると、その重さや大きさがリール越しの時よりも実相をもって迫ってきた。




タイの目的でもあった淡水魚を釣り上げた時

俺の中にあったのは充足感でも達成感でもなく

失望と嫌悪感だった。




それは紛れもなく、戦うことを諦めたモノに関する俺の嫌悪のあらわれだった。


釣り上げられた魚はただ口や鰓を動かすだけで針を外されてリリースされるまでの間、一切暴れなかった。

基本的にこの釣り堀は、食用の目的ではないから釣った魚はリリースされる。


ここで長く暮らす彼らはそのように無抵抗を貫くことが結果的に針を口から外して苦しみから逃れる最良の手段だと知っているのかもしれない。



俺は基本的に自己の存在というのは制度や周りの環境からの否定や攻撃に面して初めて認識されるものだと考えている。




ブラフマンのような超越的で定義できない存在を、汚れることはないとか、増減するものではないというような否定的表現によって捉えようとするインド思想のように、人間の自己を認識させ、浮き上がらせるものは否定だと思う。


自分が嫌悪するものや、自分と異なるものを押し付けられた時に反抗する自分を見て、改めて自己を感じ、理解することができる。


魚は釣り上げられ、口の針を外されるまで暴れ回る。川の流れの中では、そうした必死感はなく優雅に尾びれを揺らしながら泳いでいる。

死を覚悟して、生への渇望を生まれるのか

小ぶりのマスでも、信じられない力で手の中から逃げようともがく。


こういう生き物の原始的な必死の抵抗を見ると、人間はつくづく動物ということを忘れている気がする。

いや、忘れさせられているというほうが正しいか。


全てを認め、ゆらゆらと流れに身を任せる人間は抵抗する力と感情をもがれ、自己を持てないように飼いならされている。


絶対に曲げてはいけない自分の芯は、闘争から自覚されるものだが、闘争を遠ざけて、いい顔ばかりしていて気がつくと自分が何者なのかを表すラベルが所属と年齢しか無くなっていることに気づく。



衝突を恐れる人達と話すと、目の前の存在が演技臭く見えてきて、楽しく話をする演技や、周りに合わせて愚痴を言う演技、同情する演技をしているだけに過ぎず、ノミでヒビを入れ、割ってみると中は空洞になっているような錯覚に襲われて、一緒にいる、こちらまで空虚な気持ちになる。


こういうものを象徴化したのが無抵抗を貫くあの 大きな 淡水魚であり、それに抱いた嫌悪感は紛れもなく空虚な彼らを表層化させた存在のように感じられたからだった。



魚は水に返すと、だらしのない動きでこちらに一瞥もせず何もなかったように茶色の濁りの中に再び姿をくらましていった。


先ほどまで、強い陽射しを照り返し、黄金色に輝いていたように見えた長い川は、病院の待合室にかけてある、どこかの国の風景画のように今はどこか空虚で、そこにあるだけのものになっていた。