22歳の男の濁った目

汚れた目から世界を見てます。

自分探しとかそういうのを辞めた日

最後の記事です。


スペインには三週間いました。


最初の4日間をバルセロナで過ごしたあと

マドリードに向かい

ヘミングウェイが、『日はまた昇る』や幾つかの短編の題材にもした闘牛をラスベンタスで観戦しました。


時代と共に残酷だという機運が高まり

国内でも何箇所かでしか観れなくなってしまってるので、観れるうちに観ておきたかったのです。


観終わった後、しばらく佇んでいました。

感無量でした。


ずっと小説の中の世界だったものを観れたからです。


闘牛士がムレタ(赤い布)をヒラヒラするイメージだけが強く根付いていて

闘牛が牛を殺すこと自体、あまり知らない人も少なくないでしょう。



闘牛は牛と闘牛士の魂の駆け引きです。

まず、牛は赤いものに興奮すると思ってる人もいるかもしれませんが、あの牛は色盲です。


動くものに突っ込んでいくのです。

動かないものに突っ込んでいくと壁や岩にぶつかり角が折れることになるので、絶対に動かないものには突進しないようになっています。


その習性も、イベリア半島で闘牛のために育てられた牛にだけ備わっています。


すなわち、闘牛のためだけに生まれた時から牧場で育てられているんです。


その牛の習性を利用して

まずは目隠しをした馬にのった槍うちが

馬を動かして、牛を馬の横腹に突っ込ませます。

馬がかち上がると同時に

牛の肩甲骨あたりの筋肉に槍を二本馬上から突き刺します。


すると牛は頭が上がらなくなり、これ以降は頭を下げたまま突っ込むことになります。


そうしないと闘牛士の横を走り抜けさせた時に頭の縦軸の動きがあると闘牛士の心臓を突き刺されてしまうことがあるからです。


ちなみにこのやり方に落ち着くまでに100年かかったといわれてます。

たくさん死んだでしょうね。


その後短い銛を突き刺さします。

6本のうち4本ささるといよいよ

日本でも馴染みのあるマタドールの赤いムレタを使うフェイズに移行します。


ちなみに牛は賢い生き物で

自分が攻撃されていることに気づいて

きっかり15分たつと防衛本能が働いて

壁を背にしたまま動くものに一切攻撃しなくなります。


こうなると闘牛のために育てられた牛がただの牛になってしまいます。


闘牛は闘牛と闘牛士の命の駆け引きなので

こうなると牛は屠殺場に連れていかれ食肉加工をうけます。

また、牛に対する非礼として闘牛士には100〜1000万円の罰金が課せられます。


ムレタを使い牛を行きたくない方向へ誘導し

パフォーマンスが終わると

真実の瞬間と言う牛を葬る瞬間に移行します。

ちなみに闘牛士の剣は歪んで作られていて

真っ直ぐにささないと刺せないようになっています。


なのでこの時はマタドールは赤い布を使い、すれ違いざまに真っ直ぐ牛の首元を刺さなくてはいけません。

ビビって避けたら上手くいかないようになっています。


上手くいくと長い剣の握る部分以外は牛の体内に刺さり、牛は30秒ほど動いたかと思うと急に絶命します。


上手くいかないと何度もブスブス突き刺すことになり大ブーイングがおきます。


真実の瞬間にはブーイングやヤジが一切なくなり二万人の闘技場が静寂につつまれます。


全ては命に対するリスペクトからです。

牛は殺された後、ロバにひきづられていきますが皆、スタンディングオベーションで送り出します。


文字通り皆です。怠いと座ってる人はいませんでした。


これが6試合あります。

日向席と日陰席があり、日陰席の方が値段が高くなっていますが

たいてい17.18時から始まり6試合が終わる頃には日が落ちていて全て日陰席になります。


生を象徴する日光があたらなくなり、闘牛のおわりを意味するように設計されています。

そしてまた次の日には日が昇ります。

命の移り変わりを表しています。


どこまでも動くものに果敢に攻撃する牛と

勇敢な闘牛士の命の駆け引きが合わさり

初めて素晴らしい闘牛になります。


だから、ブーイングがない試合はほとんどありません。


日本で牛といえば鼻息荒く脚をかいているイメージですが、

脚をかくのは牛の警戒態勢なので

あれは駄目な牛なんですね。

そんなんしないで、突っ込まなきゃいけないんです。



ラスベンタス闘技場の外には

20か21歳で牛に心臓をつかれて死んだ伝説的な闘牛士の像があります。


彼のマネージャーは自分の家族そっちのけで彼をスターにするため、9歳の時からあらゆる巡業に連れて行ったりして英才教育をしたらしいですが

19だかでスターになりその直後に死んでしまいました。


その後、マネージャーも後を追って自殺しています。



確かに残酷かもしれないけど

命へのリスペクトと歴史を踏まえた上で

どちらかの立場をとるのが大切だと思います。


そこまでの心血を注げるものに出会えた人は

それが何でありやはりカッコいいですよね。



一人旅を通じて思ったのは

自分なんて存在しないこと。


若者は無限の可能性を秘めているとか

過度に人の個性を称賛する流れのせいで


個性とか自分らしさに悩む人がいます。

僕も言葉通じない中、笑顔でおじいさんにラグビーやってたってだけで滅茶滅茶食べさせられて

バルセロナで朝8時にゲロ吐いた時悩みました。



ただ、自分らしさとか個性って他者の関わり合いによって浮き立つものですよね。


だから、そこを理解しないで飛び出して

探しても自分なんてはなから存在しないんだから

何も見つからないはずです。



日本で見つからなかったのに

どっかで見つかるわけないし

そういう人が

見つけるのは自分じゃなくて

異国にいる日本人っていう特徴にしか過ぎないと思います。


楽しい事してる時は難しいこと考えなくて

いいですよね。

楽しいって遊びだけじゃなく。

ショーペンハウエルは宗教が自分と向き合うことから逃げださせているって言ってましたけど


僕は逃げていいんじゃないかって思います。

そん中で自分を定義づけてくれる

仕事とか仲間とかを選んでいって

そういう関わり合いによってしか

自分は結局定義できないと思うんで



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おわり。

パラドックスバックパック

今、僕はマトマタにいる。


マトマタはチュニジアにあるベルベル人の街だ。


ベルベル人というのはバルバロイからきた蔑称で彼ら自身の名前ではないが、ここでは便宜上、馴染みのあるベルベル人という表現を用いたい。


ベルベル人北アフリカに住む移動を繰り返してきた歴史を持つ民族でモロッコアルジェリアチュニジアなどに住んでいる。



ベルベル人と調べると遊牧民が関連する検索ワードに出てくる。


そして、ベルベル人遊牧民として勝手に定義づける日本人旅行者、バックパッカーのブログも散見される。



僕は昔から移動と定住に興味があった。

遊牧民はこの2つの生活体系のうち前者をとる民族を指す。


遊牧民は英語でnomadnomad peopleだ。


nomadという言葉は今日、ビジネス業界でも使われている。


時間や環境に縛られない仕事形態をとる人をそう表すらしい。



結論から言うと、僕はベルベル人遊牧民ではないし、nomadはそうしたビジネス形態を指すには適さないと思う。



彼らはアラブ人やローマ人の侵略から逃れるため移動し続けることを強いられた民族だ。


最終的に彼らは山合いの内側や、岩をくり抜いて外からは見えないように工夫して、常に外敵の目を意識して生活してきた。


彼らは侵略活動の被害者で、彼らの歴史は移動というより生きるための、民族を守るための逃避の歴史だ。



アラブ人に侵略された街に残されたベルベル人の建築物を見ると、壁の煉瓦には美しい装飾がほどこされたり快適に過ごせる工夫がめぐらされている。


決して移動を前提とした、家づくりではなく

彼らはここに住み続けることを望んでいたに違いない。


彼らは利便性を追求したミニマリストなどではなく

部屋を気に入ったインテリアで満たして、住む環境に彩りを揃える私達となんら変わらない望みを抱き続けていたのだ。


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山の内側にあるベルベル人の集落跡。

素晴らしい出来だが彼らは12世紀から約100年間しかここに住まなかった。



私のガイドはチュニスに住む歴史学者ベルベル人だった。


彼の祖父たちはアルジェリアから逃げてきたのだと言う。


閉塞感や退屈を恐れてバックパッカーのように定住よりも移動を主とする遊牧民に憧れる人も少なくないのではと質問した。


彼は多くの人が想像する遊牧民のイメージや歴史は勝者によって作られたものだと言った。


チュニジアの歴史はフランスによって作られたと。


より良い場所をもとめて絶えず移動するという遊牧民の暮らしは間違った想像で

大半の遊牧民は良い場所から悪い場所に追いやられただけだ。

肥沃な場所を追われて、定住を夢見ながら、常に怯えて、生きるための移動を強いられている。


追いやった側は発展を遂げ、肥沃な街を食い尽くし、人と建物が飽和状態になると閉塞感が満ち溢れて移動を夢見る。


そうして、遊牧民の暮らしに自分勝手な理想像を押し付けて興味を抱くのだ。



我々は、侵略と遊牧の違いについて、もっと自覚すべきだ。


豊かな国で何不自由なく定住に恵まれて育った我々は、閉塞感にぶつかると冒険や移動、自由に憧れる。

しかし、これは壮大なパラドックスをはらんでいる。



彼は歴史学者だが、自分の民族の正しい歴史がいつの日か勝者によって紡がれた都合の良い嘘にかき消されないよう外国人のガイドをやっている。



話している時の彼の目は真っ直ぐで、語気は力を帯びていた。

普段は陽気で冗談が好きな彼の口元も自分の民族の話になると緩むことはなかった。




ヘミングウェイは言った。

この世界は素晴らしい。戦う価値がある。


僕は昔から自分より強大な敵と戦う人を見ると興味が湧いた。


この構図は小説や映画でも用いられる人の心を惹きつける一種の公式だ。


だが、現実となると話は別で、

戦い方を忘れ、あぐらをかいているばかりで、腹が出て、いずれ電動カートでしか移動できなくなるような人や


理由や正義はなくても、とにかく噛み付くだけのことを戦いだと思っているジェームス・ディーンの生まれ変わりのような人で溢れている。


今やそれは誰かが編集した歴史の教科書や、小説、映画の中だけのものになった。


彼の戦いは魂の戦い。


飽き飽きして旅に出て、仲間と出会い、終始笑顔のまま、楽園に辿り着くようなテーマパークのアトラクションや絵本の中に散りばめられた侵略者の身勝手な嘘に気づかせるための戦いだ。





嗚呼、マズローよ。君はなんと偉大なことか。

インドへの往復はタイ乗り換えだった。



ルポやガイドブックに書いてあるように

夜のバンコクは快楽と狂乱の街だ。


体感的な蒸し暑さは何も東南アジアの気候的特徴からくるものではなく


ツーリストや外国人居住者の享楽を前にした高揚感や、日本をはじめとする外国企業などの介入により推し進められる急速な都市開発に対する人々の期待がこの熱気を生みだしている。



バンコクのナイトスポットで

最も我々が聞き馴染みのあるものはゴーゴーバー だろう。


そしてご多聞に漏れず

天竺を目指す我々、三蔵法師一行は往復のトランジット、つまり2度

人々が刹那的快楽を追い求めてやってくる

ゴーゴーバー密集地帯であるナナプラザへと、足を踏み入れたのである。



私と一緒にガンジス川で沐浴した友人は

往復、つまり計2回の性交に走ろうとした。

彼はおそらく業を洗い流すどころか

他人が川に洗い流した全ての業を吸収してしまったに違いない。


純粋無垢でスポンジのようになんでも吸収してしまう彼の美徳も、ガンジス川の前では何故か悪徳に変わってしまったのである。




マスターベーションリストカットと同じだと思う。


僕にとって

好きな相手との性交以外はすべからく自傷行為だ。


僕は何もここで、

新垣結衣主演、ネットの映画評価星5つ中の星2を叩き出した、あの不朽の恋愛映画「恋空」のように頭お花畑的な価値観を披露したいわけでも




ここにきて、好感度が欲しいわけでもない。


心の底からそう思うだけだ。


賢者モードという言葉があるが

概して非生産的な射精の先にあるのは

無我の境地や梵我一如の思想などではなくて

激しい後悔と自己嫌悪だ。


僕の脳内で、誰かがこう囁くのだ。

「この時間、一体なに? てか恥ずかしくないの?」


そうして射精のあとは僕はいつも

頭からクレパスに真っ逆さまに落ちていく。

深い深い自己嫌悪の谷底。

そこには幸せを運んでくる陽気な青い鳥も

愉快な歌を口ずさむウサギも

長靴を履いた猫もいない。


そこは光一つさしこまない

あらゆる生命体が死に絶えた後の

荒涼とした大地で

僕はちょうど何かの動物の頭蓋骨らしきものに腰をかけてうなだれている。


しかし、いつしかこうした射精による自傷行為、自己破壊の営みがクセになってしまう。


本音と建て前が美徳の我が国では

コンプライアンス遵守が叫ばれるようになり

頭から水をぶっかけてくれるような

人格を全て否定してくれるような

涙が出てくるほどボコボコに口撃してくれるような経験はほとんどできない。




本音が言いにくい環境は住みよくもあり

SNSのタグ付けのように人間関係全般に満ち溢れる、拭えない嘘くささを生み出す側面も持つのではないか。



そうした充満する建て前の中で

僕は自己破壊を求めるようになり

自分で自分を否定することで

頭から冷や水をぶっかけるようになった。


その証拠に昔から

本当に愛のあるセックスによる射精以外は

射精したらすぐに北の国からのテーマを聞く習慣があった。


富良野のラベンダー畑が脳内に映し出されると

対比して自分がしたことの醜さがありありと感じられる。



自分の醜さや弱さを本当に理解した先に進化が待っていると僕は思う。


それから目を逸らすのは成長を妨げることにしかならない。


こうして、僕は何らかの進化を遂げたのか

ナナプラザに行っても2回とも何もする気が起きずバーでwhere is the love?を聞きながらビールを飲んでいた。


ジョブズやレイ・ダリオなど

名だたる成功者はインドのヨーガ思想、瞑想に興味を持ち生活に取り入れている。



成功者になりたいわけでもないが

僕も以前から興味があった。

でも今回、時間の都合でリシュケシュに行くことはできなかった。



どうやら私は私なりのやり方で

瞑想を修得したらしい。

それもリシュケシュでなく

ナナプラザのバーで。


ビールの瓶に、全ての業を吸収した友人の顔が反射した。

彼の顔は何故か愛のあるセックスのあとのような汚れのない笑みにつつまれていて、思わず自分の飲んでいるビールがエビスビールではないか二度見した。



いつもは外国で物乞いにお金をあげることはしないのだけど、その帰り道、お金をいれた。


なんだか偽善者みたいでこんな事言うの嫌だけど

悪い気分じゃなかった。






生と死の街、ヴァラナシ。

先の記事に書いたように

僕の初めての相手である、このヴァラナシは"生と死の街"という別の名を持つ。



その由来はこの街がガンジス川(ガンガ)に面していることに深い関係がありそうだ。


ヒンドゥー教の聖地でもあるこの場所はインド人が生涯に一度は訪れたいという地で


人々はこの川で罪やカルマを清めるため沐浴する


罪を水によって清めるという浄罪的価値観はヒンドゥー教の寺院に沐浴場が設けられていることから分かるように、この宗教にとりわけ強く見られるが、その最たる例が、このガンジス川での沐浴である。


川沿いで焼かれる死体の数は1日に2000にも昇ることもあり、その灰が川に流れていく。


また犯罪者や乳児、蛇に噛まれて死んだ者は火葬ではなく川に流される。


ニルヴァーナ・涅槃(輪廻から解脱すること)のためにヒンドゥー教徒の肉体は死後はここに集められるのだ

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三度水に潜ってから、五回太陽に向けて手ですくった水をかざす。

三度の内訳はシヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマーである。





ガンジス川は世界一汚い川と言う人もいて

友人から上流ではWHOが新種のウィルスを発見したという話を聞いたが


AVで唐突に映る正常位の男優のケツのアップが

世界で1番汚いと思っている俺は全く汚いと思わなかった。

(あれは人の1日の活力を奪い去るのには十分なものだと思う。)


ガンジス川は日本の川とは比べ物にならないくらい川幅が広く中央部は流れが非常に速い。

向こう岸とこちら側が完全に川を境に隔絶されている感じがした。


信仰の壁を超えて俺はその壮大さに感動した。

泳いであんなに気持ちがいい場所は他にない。



沐浴していると川を赤ん坊と男の死体が流れていった。



沐浴が終わると火葬場を見学した。

木材で組み込まれた中央に遺体が置かれていて、その木材に火をつけて火葬する。


この火葬に使われる火は火葬場の下にあるシヴァの火で3000年前から絶やさぬよう薪がくべられているらしい。


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それにしては火は今にも消えそうで、誰も見張っていなかった。

これじゃあ美味しいウィンナーを焼くこともできそうになかった。


棺に入れられてから遺灰となるまでの行程を見せない日本の価値観からすれば、この行程を親戚でもなんでもない観光客が見られることに違和感があるかもしれないが


焼かれて肉の溶けていく頭蓋骨や、足。

人を焼く匂いに触れることがこの旅の目的だった。



人は全て死んで脳が機能を停止すれば

焼かれていく、肉の塊と同じだ。

不信心かもしれないが、グリルで焼かれる牛や鳥の肉と何も変わらない。


人間だけが特別なわけではないと思う。


死は映画や小説のように劇的なものではない。


三ノ宮のバスの一件のようにいつ、不意にやってくるかはわからないもので

特段、準備するものでもないというのが一貫した自分の死生観である。


死は非日常的なものでもドラマチックなものでもないと日本で多くの人が悟るのは、歳をとりスーツより喪服を着る回数が増えてからだ。


だが、それでは遅いと俺は思う。

限りある生を意識して謳歌するためには死をとらえることから逃げてはならないからだ。


日本に帰ってきて、インドと比べ歩道の綺麗さや、コンビニの利便性、景観の美しさに感動する。

しかし、それと同時に、決定的に何かが足りていないような感覚に襲われる。


それは紛れもなく、あの川を流れる遺体であり、薪の中で人が焼かれる匂いであり、道におちている牛や犬の糞だ。


生に不都合、不快な一切の事物が景観から削除されている。

そのおかげで人は快く、死に対する恐怖を感じることなく生きることができる。


しかし同時にそれは死と向き合わないことで、限りある生を遠ざける要因でもある。


毎日、ニュースで流れる死亡事故はどこか他人事でアナウンサーの読みあげる原稿は喫茶店で流れるBGMのように声ではなく単なる音として耳を通り抜けていく。


自分もいつ死ぬか分からないという意識は

何かを後回しにしたり、不健全に過ごすことを禁じて、限りある生を有意義にするものだ。


しかし、メディアは決して遺体を映さない。

街に糞や生き物の死骸はない。

多くの人にとって初めて見るのは老衰で亡くなる祖父母の遺体だ。


だが、自分が老衰まで生き長らえる保証などどこにもない。


かといってテレビで死体を映したり、道を糞や死骸だらけにしたいかと言えばそうでもない。


そういう自分はヴァラナシに

求めていた通りのものを見て、感じた。


太陽に水をかざした後、

現地の人が合掌して神に何か気になることを尋ねれば、神は答えてくれると言った。


自分は

精一杯やりたいよう生きてみますとしか言わなかった。

何も尋ねたいことはなかった。


死と接する、この街の人達の暮らしに本当に尋ねたかったことの答えは既に見ることができたからだった。


ヴァラナシで射精した夜

人は例外なく快楽のために生きている。



風俗に足繁く通って、

金で若さを買うような性的快楽。


気に入ったブランドでインテリアを

統一して住む環境を心地良くしたいという快楽。


恋人と手を繋ぎ海岸に腰を下ろし夕陽を見る快楽。


仕事で成果を出して周りから認められる快楽。


快楽は上述した一義的なものから、

自己実現と結びつくような長期的、複雑なもの

にまで及ぶ。


そうした快楽への欲望と結びついて

広告やビジネスは生まれ、人々の購買意欲と結びついて消費社会が生まれる。



快よいものを見たとき、または想像したとき

人は興奮を覚える。


電車の中でこれから行く風俗店の出勤表を見る人。


遠足の前夜、なかなか寝付けない小学生。


タピオカの列に並ぶカップル。


スタンドで選手入場を待つサポーター。


興奮というのは何も性的なニュアンスしか持たない言葉ではない。





もともとヨーロッパで言うところの貴族の役目は、自分の農園やらの奴隷が労働を肩代わりしてくれているおかげで、そうした快楽をたくさん知ることだった。

ポロ、乗馬、舞踏会、鹿狩り、云々。


sophisticated、

直訳で洗練されたという英単語は

どの大学入試用の単語帳にも載っているのに

日本で洗練されているなんて言葉は

それこそ広告以外で目にしない。


しかし、海外ドラマを観ると

度々、人物の形容に際してsophisticatedが用いられていることに気がついた。


sophisticated、洗練されているとは

そうした快楽を昔から教えられて育ち

あらゆる快楽を知り

なおかつ節度ある付き合い方をしていることを指すのではないだろうか。


パチンコと風俗店と居酒屋だけに行動範囲が限定されているのは洗練されている人とはいえない。


奴隷という概念がなく、すべからく自由市民である今日、限られた快楽しか知らないのは不健全だ。


同じ快楽を同じ次元でやっていても飽きるからだ。


その為に働いてお金を稼ぎ、不満が出ないよう雇用者もちょうど飽きないあんばいで昇給させていく。


この快楽は今日では趣味という言葉で置き換えられる。


学校教育では快楽に走るのを禁じて、

共同体の中での処世術を学ばせているようで

しっかりと世界史なり美術なり音楽なり

快楽へ導くヒントを与えている。


それらが快楽の幅を広げてくれる

感受性を豊かにしてくれる材料なのだが


働くようになると

意外と趣味が全くないという人に会う。


先に言っておくと消費と快楽は違う。

パチンコや風俗、ショッピングは消費であって恒久的に快楽を与えてくれるものではない。

消費した、その日はなんだか嬉しいが

長続きせずまた消費に走る。

消費から抜け出せなくなる。


目が死んでいる人は快楽の種類を知らずに育ち

感受性に蓋をした精神的インポテンツだ。

いわゆるEDだ。


"何を見ても何かを思い出す"という

ヘミングウェイの短編を引き合いにすれば

"何を見ても何も感じない"人たちだ。


興奮の仕方を忘れ、そのことに半ば気づき

焦って風俗店に行って束の間の興奮を得る。

しかし、それは偽りの快楽、消費でしかない。


フィッツジェラルドの『華麗なるギャッツビー』の中で努力して成り上がったギャッツビーが、生来の金持ちのブキャナンに激昂する場面があるが


2世タレントとか金持ちの息子を親の七光りという人達が完全な僻みからそう発言していることがわかる、いい場面だ。


快楽の知識において生まれつきの金持ち、石油王、地主、社長の息子に勝てる成り上がりはいない。


それを素直に受け入れなければ何も始まらない。


僻みと愚痴をつまみに酒を飲んで

生涯、興奮を忘れて棺桶に入ることになる。

死ぬ間際まで勃ち続けて、棺桶から死後硬直したアレがはみ出て葬儀会社が困るようなことにはならない。


本題に入ろう。

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インドは一部の都市を除いて

街と人が同じ時の歩み方をする。


この国では、昔の日本のように

共通の基盤の上に成り立つ地域の暮らし

コミュニズム的な意識が機能している。


空からは無数の凧の糸が垂れていて

それを目で辿っていくと無我夢中になっている子供達がそこら中の建物の屋上にいる。

小雨が降り始めると皆慌てて凧をしまい建物に入り、雨が上がるやいなや皆また凧揚げをしに屋上にでてくる。


日が落ちて夜になると、街全体が暗くなり、静かになる。

そして眠りに落ち、日が昇ると皆起きだす。


街で祭典があれば老若男女問わず沢山の人が集まる。


小学生の時はリアルタイムでエンタやめちゃイケを見て、翌日の学校で話していた自分ら世代にはどこか郷愁を感じるような暮らしだ。


そんなことを考えながら屋上でタバコを吸ってると停電が起き、ヴァラナシの街は暗闇に包まれた。


非常用の電気や代替の回路を持つ施設はなく

遠く離れたガンジス川で行われている祭典の光や音以外は何も入ってこない。


美しい光景だった。




俺はこれを見て射精した。


下品に思われるかもしれないが

異性の裸とポルノ写真以外に興奮できない方が

下品だと俺は思う。


射精したことで、忘れさられやすい視覚的な情報や感動がより深く肉体に刻み込まれる感覚だった。


感受性に蓋をして、目が死んでウォーカーみたく生きるより、

壮大な自然や宗教画、建築物を見て勃起してしまう方が健康的だ。


だから美術館で変な歩き方をしてる人を見たら

「恥ずかしいことじゃありませんよ。ほら、見てください。僕も勃ってます。」

と話しかけてみようと思う。


そうやって、留置所の窓から見える月でまた勃起してしまうのかもしれない。


肌色でしか興奮しないなんて。

肌色でしか興奮できないなんて

なんて寂しいんでしょう。


肌色でしか射精できないなんて

なんて悲しいのでしょう。



荘厳な大自然にも

偉大な芸術にも

繊細緻密な建築物にも


勃起しないで

感受性に蓋をしていたら

それは

精神的インポテンツじゃない?




神は死んだのか。

突然ですが

皆さんは神様って信じますか?



僕は2泊3日で一睡もせずに

交代で車を走らせて

男4人でお遍路さんを回った事があります。



その時、各寺でわたしは手を合わせて願いました。


「自分はどうでもいいので、家族や友人が健康に過ごせますように。」



神奈川に帰ってくると

待ってましたと言わんばかりに

祖父の容態が急激に悪化して

そのまま亡くなってしまいました。



僕は破天荒な祖父にずっと憧れていました。

銀行員の時、飲んだ帰り、間違えて東海道線の終電に乗ってしまい、最寄りの駅に停車しないと気づいて窓を開けて飛び降りて血まみれで帰宅した祖父。


バブル期の退職金を一銭も家族に入れずに、「お前らに渡すくらいなら女に使った方がましだ。」と本当に全部とかしてしまった祖父。


病院で臨終間際の弱り切った状態で、必死にノートを私に渡してくれて、中を見たら「ガキ大将あれこれ」という自らの武勇伝を書き集めたものだった祖父。


そして

自分なりに祖父に相応しい弔いをしようと通夜の直後に女王さまのお店に行き

どうしてほしいんだい?と聞かれ、もっと虐めてくださいと叫ばされて号泣して女王を狼狽させた僕。



全てがいい思い出です。

いや、いや、いや

こんな話したかったんじゃないです。失礼。


とにかく80箇所近く、祈った結果

クラウチングスタートで祖父が天国(ではないかな多分。)に全力疾走していったあの日から


神さまなんて信じちゃいなかった。



昔から受験とかで太宰府に行く親を

いやこんだけ勉強して最後神頼みって…

と白けた目で見ている自分だったし。



だけど、社会に身を置いてみると

同じことの繰り返しに、どこかから閉塞感がやってきて

奇跡的な何か。(チャトウィンの言葉を借りれば)

超越的な何かを見てみたくなるもんだ。


イエティやネッシーなどの幻獣。

アンテロープキャニオンやナイアガラの自然。

ジャングルブックモーグリのモデルになったインドの狼に育てられたという少年。

云々。


科学的思考、ニヒリズム、現実主義。

どれだけの視座を高校や大学の学問形態の中から得ても、かえって神秘的な何かをこの目で見たいという気持ちは強くなるばかりだ。



人工的に作られたイルミネーションを眺めたり、護岸工事された浜辺に佇んでも、たまりにたまった閉塞感を束の間、発散させているに過ぎない。


何らかの超越的な存在による

(それが、ブッダなのかキリストなのかは分からないし個人的には誰でもいい。)

創造というものを信じざるを得ないような規模の壮大な景観をもってしかこの閉塞感を追いやることはできない。


神を信じるというのは

信仰どうこうじゃなく

何か超越的な存在を自分が信じるということだ。



戯曲や寺院や大聖堂は神を前提として、それを信仰する人間から生まれた、いわば神が人間の手を借りた間接的な芸術だが

無宗教の僕にも何らバックボーンを持たない人工物はこうした規模や荘厳さでは遠く及ばないことは分かる。



放送作家や脚本家の中にはギリシャ神話を読む人が結構いるというインタビューを見たことがある。


神話や啓典、戯曲には人が面白いと感じる物語の構成や流れが集約されているからだ。


古典を読むと思うのは人の悩みや興味の本質は古代ギリシャからさほど変わっていないという事。


文学も映画も、現代の事象を応用して飾り立てて、そうした型に当てはめることで多くの感動や共感を引き起こしていることが多い。



科学のない時代から人々は、自分の住むこの世界が如何にして創られたのか、考えを巡らせてきた。

そして壮大な物語を構築して、多くの賛同を得たものが信仰として今なお生き残っている。


文体の美しさ、起承転結などの物語の構成。

戯曲や啓典を読むと、一介の人間にしては想像力に富みすぎているという疑いを持つのは僕だけじゃないんじゃないだろうか。



あいも変わらず、不信心な僕は救済されたいとか質素倹約、慎ましく生きたいと思うことはなく

神がこの世界を6日で創造し、7日目に安息まれた。(安息日

昔のイスラエル人は週6で働いていたという話を聞いて、週5で働き方改革って言ってんのにやはり信仰って凄いな、いや信仰なしで週5働くのが凄いのかとか考えていた。




ただ神の存在は信じる。

そういう非科学な、奇跡的な何かを五感を与えられて生きてるからには信じて、自然や文化的営みの中に見つけて、その目撃者となりたいのだ。


これを否定するのは合理主義的な人だと思うんだけど、皆、女の子とヤりたいだけでもちょっといい店いって夜景見て、壮大な前戯の前戯みたいなカッコつけはするよね。


そのロマンは持つのに、生き方のロマンを否定するのは無理があるんじゃないかな。


否定していいのは、一番安いし、ホテルまでの距離で酔い冷めたくないからって女の子とホテルの前でワンカップ大関飲むレベルの合理主義的な人だけです。


逆に生き方興味あるんで否定とかじゃなく、お話聞かせてください。