22歳の男の濁った目

汚れた目から世界を見てます。

地獄の業火で会いましょう。

ゴシップ。


人間が存在する以上

世界から争いがなくならないのと一緒で

飲み屋から永遠に消滅することのない主題。




誰が浮気したとか不倫したとか

誰が補導されたとか捕まったとか



裁いたり、コメントを求められる仕事にもなく

当事者でもないのに滅茶苦茶叩く人は自らは、どれほど清廉潔白な人間なのだろう。

そもそも、関わったことのない人間の人格なんて分からないんだから第三者は何も分からないじゃないか。


一度きりの過ちでその人の人格を全否定する人間は、どれほど罪の思いに汚されていない情の持ち主なのだろう。


殺人とか強姦とかそういう規模の犯罪や

元々、人格が破綻し尽くした人間を擁護したいわけじゃない。


当事者間で解決できる話に首を突っ込みたがる人の話だ。




ヨーロッパ建築を見るならキリスト教に関する知識は必要だろうと宗派問わず勉強していたら

人間の罪に興味が湧いてきて

アダムとイーヴによる人間の最も古い罪を題材にしたミルトンの『失楽園』や、罪を犯したものを待ちうける地獄が描かれたダンテの『神曲』や、それこそドストエフスキーの『罪と罰』を読んだ。


神曲』は啓示の書でもなく、ダンテが描いたものだから主観丸出しで、彼が敵対してた政党の人とか個人的に嫌いだった人とかまさかの恩師までも物語中では勝手に地獄に落とされていて、それがイジメられっ子が想像の中でイジメっ子をボコボコにしてるみたいで面白いんだけど。





ともかく、これから壮大な犯罪を行おうとしている人みたいな本棚が完成したわけだ。



一通り読んだ僕の思いは

もし、この通り死後の世界が待っているとすれば

また、この通りの基準で審判が下るとすれば


人類の9割くらいは地獄に落ちる。

少なくとも僕の知ってる人はパパもママも友人もみんな地獄行きだ。

もちろん僕もね。



僕は知らないこととかやったことないことに対する好奇心が強くて、これはどちらかといえば数少ない僕に備わる美徳だと思っていたんだけど



モンテーニュは知識と学問を増やそうとする心遣いこそ人類を永遠の呪いの淵へと落としたものだと言う。


だから「自信満々で私は好奇心旺盛で何ごとにもぶつかっていくタイプです。」って自己アピールを披露しても面接官がモンテーニュだったら頬を平手で打たれて不採用だ。


お世辞ばっか言って媚びへつらって生きている人は地獄で糞尿の中につけられて苦しみ続ける。


彼氏持ちの女の子と付き合いたいからマンネリ化してる所に優しく近づいてそんな奴捨てちまえよと別れさせる男も中傷分裂の罪で地獄では自分の体を斬られて、自身を分断されて苦しみ続ける。


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(彼氏持ちの女の子、彼女持ちの男の子と付き合いたいがためにこうなるかもしれない。)


ミルトンに習えば

神は人間を自由な存在として創られた。

(それがゆえにイーヴは禁断の果実を口にした)


だから、自分で選択するという与えられた権利を使わず、人に流されてばっかの人も僕からしたら地獄行きです。

(ダンテみたく僕の頭の中ではね。)



はじめはダンテと共に哀れみの目を持って地獄の階層を一つ一つ降りて、悲惨な光景を眺めていた僕は次第に思い当たる罪状が多すぎて途中から将来住む部屋の内見に来た人みたいに地獄の水回りや防音性が気になりだしたのでした。


不信心な僕は希望的に捉えても、もう地獄行き決定です。

だから、現世を目一杯、自分の生きたいように生きます。

とやかく他人のゴシップに物申す立場にもありません。


皆さん、いつか地獄の業火でお会いましょう。

それじゃあ。



新世界のおやじ

横浜の大衆居酒屋で飲んでいると

一瞬で店内の空気が変わったのを感じた。


俺が座っている席の横にあるカウンター席に

腰掛けたおっさんは

明かりのない洞窟のように不気味な

歯が一本も生えていない口を動かしては

懸命にこちらに何かを訴えているのだけれど


歯がないのと見るからに泥酔しているのとで

何をいってるのか1つも分からなかった。



注文もせずに、席に座ってずっと一人で喚いているのを見かねて正義感のある男性店員が注文を促すと


ポケットからボロボロになった財布をとりだし、その中からシワシワの千円札を机に出して生ビールを注文した。


おっさんは店内に入った時から生ビールが運ばれてきてからもずっと1人で何かに対する憤りを訴えている。


口のつけられていない生ビールの泡は虚しくなくなっていき、同じように老人の訴えも誰の耳にも届くことなく虚しく空を舞ってどこかに消えていた。



これが大阪の新世界とか西成とかだったら

ありふれた光景なのかもしれないが



横浜の人達にそうした免疫と耐性はもちろんなく

この老人が好まざる客であることは

店員の表情からも明らかだった。


まぁまぁうるさいのだけれど、強制的に退店させるだけのボリュームではなく、1時間ほどかけて、おじいちゃんは生ビールを飲み干した。


ただの泥酔したおっさんなら面白がって話す大学生がいるのかもしれないが、何を言ってるのか1つも分からない老人の声は声として認識されることもなく、イヤホンからの音漏れのようにただの耳障りな音でしかなかった。


普通の人なら店を変えるとか店員に文句を言うのかもしれない。


俺と友人は思った。

かわいそうな老人だ。


無機質な音を発する老人は

飲み過ぎているからとか、適当に理由をつけて退店させられるわけでもなく、誰かに相手にしてもらえるわけでもなく、誰からも無視されていた。


この居酒屋で声にならない、目的地を持たない音を発し続けているのは店員や客も含めてこの老人だけだった。



かの有名な『神曲』でダンテはウェルギリウスに導かれて九圏を通り地獄を見る。

そこでは肉欲に尽くしたクレオパトラなどキリスト教7つの大罪に反した者達が裁きを受け、もがき苦しむさまが描かれている。



俺の印象に残ったのは、天国にも受け入れられないが、神から地獄に送るほどでもないと判断された人間達だ。

彼らは地獄にもいけず、蜂やアブに刺されながらずっと逃げ回っている。顔は血まみれでそこから垂れて地面に落ちた血を更に別の虫が啜っている。


彼らは存在を完全に無視された人間なのだ。


人が1番耐えがたいものは無視されることだ。

自己顕示欲はそうした恐怖からくる。



俺は別に宗教家ではないし、無宗教だが

今俺がすべきことは、この人に愛を施すことなのだ。


人は皆、孤独に耐えられない。

映画「イントゥザワイルド」の主人公であるクリス・マッカンドレスは裕福な家に育ち、名門大学を出たあとで、私財を全て捨ててアラスカの荒野に向かう。

死の瀬戸際、彼は「幸せは共有する誰かがいないと成り立たない。」ということばを残す。



自分の人生を決めるのは誰かの助言や後押しではなく自分自身だから、1人の時間は絶対的に必要だと思う。


だから、付き合いじゃなく、群れることにはならないように気をつけている。


ただ愛は否定できない。

無期限で存在を誰からも無視されることに耐えられる人はいない。

こっぱずかしいけれど

誰かから愛をうけたら

自分も愛を与えなければならない。


なぜ、関西にいた時は会いたくても会えなかったのに今、横浜で新世界のおっさんを見ているのか。

この新世界のおっさんは当たり前だと愛の大切さを忘れていた自分に、神から遣わされたウェルギリウスなのかもしれない。


そう思った俺と友人は、この老人の叫びに耳を傾けた。

退店する老人はどこか嬉しそうだった。




1時間で聞き取れたのはタイガースとピッチャーの2つだけだった。


タイにて。③

釣り堀で使用される餌は

大量のパン屑に集魚液を浸したもので

それを手で練りこんで

サビキの要領でハリスの上にあるカゴを覆うよう

おにぎりほどの大きさに丸め込む。

下のハリスには食パンを半分ほどの大きさに

ちぎったものをつけ

それを先ほどのおにぎりほどのパン屑の外側に埋め込む。


必然的に糸の先にはただソフトボール大のパン屑がぶら下がっているように見える。



投げ込まれたソフトボールは水中でだらしなく瓦解をはじめ

埋め込まれていたハリスが姿を現して漂いだす。

浮遊するパン屑に吸い寄せられた魚は

同じように水中を漂うハリスの先につけられたパンを勘違いして飲み込むようになっている。




ソフトボール大のパン屑はジグヘッドと異なり

不安定で重く真っ直ぐ飛ばすのが難しい。

また丸め方が甘いと空中で分解して

パン屑は思い思いの方角に向かって着水することになる。



釣りの技巧としてはまず最初に仕掛けの選定が重要になる。

釣りをしたことがない人間は釣りが上手いというとしゃくりや、遠投をイメージするが

それは狙った魚に適した餌と仕掛けが大前提となっている。

用いる仕掛けによってそうしたアプローチの仕方は異なる。

だから釣り人への第一歩としては魚と地形、それに合わせて仕掛けを選ぶことが重要になる。

これは教科書に書いてある知識事項とは異なり自分で体得していくものだ。




何度も投げているうちに餌の取り付けも上手くなってきたが、一向に食いつく兆しは見えない。


資金難からガイドを断っていたが

わざわざ遠く島国からタイまで来てパン屑を川に撒き散らして帰らせるのは可哀想だと思ったのか

見兼ねたガイドが来て一度、餌付けからキャストまでをやってくれた。

彼は我々が5分くらいかかる餌付けを手際よく30秒ほどで行うと、対岸のコテージのやや前方の巨大魚が潜んでいる場所にいとも簡単にキャストした。


老人と海』の主人公サンチャゴのように

彼の顔には長年の日焼けからか、いくらか皺が入っていて、何も言わずとも釣り人としての経験を物語っていた。


昔、顔は男の人生の履歴書と言ったものだ。


日焼けサロンに通いつめて紫外線を受けて機械的な時間管理で焼かれた肌は、まるで植林されてから枯れるまで防虫剤をふりかけて管理し尽くされる道路脇の街路樹のように一元化され、樹齢を刻み込んだ味のあるは大木のようだとはいえない。


ネイティブ・アメリカンについて扱った文献、小説を読むと老人の顔の皺について、それを単に美の退廃としてではなく、知や経験を物語る畏敬の対象として捉えていることが分かる。




サンチャゴが投げたあと、浮きを眺めていると、濁り切った川面の下に吸い込まれるように消えていった。


大抵、魚がかかると浮きは、水面下の魚の必死の抵抗を表して沈む前に一定のY軸運動を見せたりするものだが、ひっそりと不気味にその浮きは沈んだ。


慌ててロッドをたて、リールを巻いてラインをたぐりよせると、右手にずっしりとした重みを感じて初めて糸の先の何かの存在を感じた。


岩場はなく、下が砂地なので、魚が潜り込む場所がないというのも大きいのか、針の先の何かが暴れ回っているのが竿伝いに分かるような感触もなかった。


こんな経験は初めてだった。

リールを巻く度に確実に近づいてくるものが魚ではなく、得体の知れない別の何かなのではないかという不安は、それが水面に表れるまでの間、胸の中に先ほどのパン屑のソフトボールほどの大きさにまで膨らんで拭えなかった。



ラインを手繰り寄せているとそれは姿を現した。

60cmほどの淡水魚だった。

タモですくいあげると、その重さや大きさがリール越しの時よりも実相をもって迫ってきた。




タイの目的でもあった淡水魚を釣り上げた時

俺の中にあったのは充足感でも達成感でもなく

失望と嫌悪感だった。




それは紛れもなく、戦うことを諦めたモノに関する俺の嫌悪のあらわれだった。


釣り上げられた魚はただ口や鰓を動かすだけで針を外されてリリースされるまでの間、一切暴れなかった。

基本的にこの釣り堀は、食用の目的ではないから釣った魚はリリースされる。


ここで長く暮らす彼らはそのように無抵抗を貫くことが結果的に針を口から外して苦しみから逃れる最良の手段だと知っているのかもしれない。



俺は基本的に自己の存在というのは制度や周りの環境からの否定や攻撃に面して初めて認識されるものだと考えている。




ブラフマンのような超越的で定義できない存在を、汚れることはないとか、増減するものではないというような否定的表現によって捉えようとするインド思想のように、人間の自己を認識させ、浮き上がらせるものは否定だと思う。


自分が嫌悪するものや、自分と異なるものを押し付けられた時に反抗する自分を見て、改めて自己を感じ、理解することができる。


魚は釣り上げられ、口の針を外されるまで暴れ回る。川の流れの中では、そうした必死感はなく優雅に尾びれを揺らしながら泳いでいる。

死を覚悟して、生への渇望を生まれるのか

小ぶりのマスでも、信じられない力で手の中から逃げようともがく。


こういう生き物の原始的な必死の抵抗を見ると、人間はつくづく動物ということを忘れている気がする。

いや、忘れさせられているというほうが正しいか。


全てを認め、ゆらゆらと流れに身を任せる人間は抵抗する力と感情をもがれ、自己を持てないように飼いならされている。


絶対に曲げてはいけない自分の芯は、闘争から自覚されるものだが、闘争を遠ざけて、いい顔ばかりしていて気がつくと自分が何者なのかを表すラベルが所属と年齢しか無くなっていることに気づく。



衝突を恐れる人達と話すと、目の前の存在が演技臭く見えてきて、楽しく話をする演技や、周りに合わせて愚痴を言う演技、同情する演技をしているだけに過ぎず、ノミでヒビを入れ、割ってみると中は空洞になっているような錯覚に襲われて、一緒にいる、こちらまで空虚な気持ちになる。


こういうものを象徴化したのが無抵抗を貫くあの 大きな 淡水魚であり、それに抱いた嫌悪感は紛れもなく空虚な彼らを表層化させた存在のように感じられたからだった。



魚は水に返すと、だらしのない動きでこちらに一瞥もせず何もなかったように茶色の濁りの中に再び姿をくらましていった。


先ほどまで、強い陽射しを照り返し、黄金色に輝いていたように見えた長い川は、病院の待合室にかけてある、どこかの国の風景画のように今はどこか空虚で、そこにあるだけのものになっていた。


タイにて。②

旅の目的である巨大魚の釣り堀は

宿泊していた

バンコクの市街地から

車で北に1時間半ほど上った

ノンタブリーにあった。



ノンタブリーはバンコクに隣接する

バンコク首都圏である。




単調な一本道だった。


地図で見ると県境は曖昧だが、


車道の両脇に三菱やパナソニックといった日本企業の看板や、高層ビルが立ち並んでいたのが

田園やエビの養殖場ばかりになり

視界を遮る遮蔽物が少なくなると

車がノンタブリーへ入ったことが分かった。





タイの巨大魚釣り堀は

日本のメディアでも度々取り上げられている。


そうしたツーリストの人気もあって

ゾウに乗るツアーや水上マーケット同様

これを外貨獲得の好機と捉えた彼らは

この国の安い物価感覚からすれば

異常に感じるような価格を要求してくる。


それゆえ

この日、私を釣り堀まで載せてくれた

タイ人のドライバーも

近くにこうした場所があるのに

巨大魚を釣ったことはないという。



そうした環境もあいまって

外国資本の流入が彼等が快楽を知る機会を

奪っていることに反省はしつつ

価格帯の高い有名な釣り堀を避けて


比較的アクセスの悪い

このノンタブリーの釣り堀を選んだのだが

それでも釣竿や入漁費、餌代を含めると

2500バーツにもなった。



ゲートをくぐり、釣り堀に入ると

それはどこまでも続く一本の河

のように感じられた。


日本の釣り堀といえば

釣り堀とは言え、生簀のようにこじんまりした

所に魚が押し込められているような場合が多く

釣り堀で釣るのに苦労したという話は

あまり聞かない。


しかし、こうもスケールの大きいものになると


最早、区画の中から

魚が逃げれない事が担保されているという概念上の事実を除いて日本のものと共通点はなく

釣り堀であっても

閉塞感や退屈感は感じないのだから

不思議だ。




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入り口向かって右側が日帰りの入場者向けの足場

になっていて

対岸のコテージは宿泊者用になっている。



川の構造は恐らく日帰り入場者の足場から

コテージ川に向かって

深くなっていて

必然的にコテージ側に大きな魚が潜んでいる。

それゆえに日帰りの挑戦者は

宿泊者よりも当然

仕掛けを真っ直ぐ、遠く投げる技量が

求められる。


日本の河川でも時たま、鯉が跳ねたりして

水面に飛沫を立てる光景が見受けられるが

日本の鯉などとは比べようもない

大きさの淡水魚がいるのだから

時たま、見えるそうした飛沫や波紋、

また、それを起こしたであろう魚の尾ビレも

鯉のものとは比べようもない。




日本人でも釣りを趣味にする人は少なくない。

ネットで調べてみると

タイの巨大魚に魅せられた日本人の記事が

たくさん出てくる。


それでも、やはり日本人に比べて

幼少期から狩猟に親しみのある西洋人はハンティングのみならず、釣りにおいても巨大な個体への征服欲というものが強いらしく


この日、釣り堀で見かけたのも 

私以外は

コテージに泊まっている

白人の男のグループのみだった。



この釣り堀でも特別大きな魚を釣り上げた

歴代の勝者にのみ

入り口に飾られることが許される

名誉ある数々の写真の中にも

嬉々とした表情を浮かべて

打ち倒した相手を抱えている

西洋人の姿を多く確認できた。





なぜ、人は巨大な獲物に惹かれるのか。



その理由は、可食部分が多ければ、それだけ長く食いつなげられるという単なるホモ・サピエンス的な潜在的記憶の継承ではないだろう。


恐らく

人々が"闘争"それ自体を求めているからに

他ならない。


現代社会の中での闘争は明らかに存在する。

会社で実績を出すことによる出世闘争。

住む場所や家、持つ車や時計に表される

所得闘争。


闘争が存在して始めて勝者と敗者が

生まれるのだから

格差があるということは

そこに闘争があるということの証しである。



しかし、先にあげた現代の社会的闘争は

ネットによる情報伝達の高速化や人間関係など

数多くの要因によって複雑化している。


それに比べて、狩りや釣りは

自分と相手の二者間による単純な闘争である。


自然環境は影響する要因であるものの

社会的闘争に比べれば純粋な闘争として

その実体を捉えやすい。



所得を得るために人は闘争するのか?

人は闘争の結果に取り憑かれているのか?




闘争とは単に打ち勝てばいいものではない。

相手が明らかに格下であるより

苦戦を強いられるくらいの強敵を

打ち倒した時の達成感や快楽は大きい。

より大きなカタルシスを得るためには

より強大な相手が必要になる。


ということは、誰しもが経験則から分かる以上

人は闘争の生産物のみならず

闘争それ自体を楽しんでいることになる。



うどの大木という言葉がある。

体が大きいが役に立たない人を揶揄する際に

用いられる言葉だ。


しかし、狩猟や釣りをする人間は

大きい個体に対して畏怖と尊敬の念を持つ。


野生においての大きさは

生き延びてきたことの証明であり

その個体の強さと賢さを

一目で相手に分からせるものなのだ。




鮎釣りに行った時の話だ。

ある程度群れで固まって泳いでいる鮎たちから

少し距離を置く型で

大きな鮎が泳いでいた。


群れている鮎は何度か釣れるのだが

その大きな個体を釣ろうとしても

他の鮎達のように簡単に餌にくいつくことはなく

結局、夕方までやってみても

その鮎は釣れなかった。



大きくなるまで偶然生き残ることはなく

ペットショップのケージの中の生き物と違って

野生の個体がそこまで生き残るためには

賢さが必要なのだ。


野生動物で、うどの大木は存在しない。

それを知った男たちは

達成感と快楽を満たすべく

また闘争それ自体を美しくすべく

大きい個体に畏怖と尊敬の念を持って

挑戦するのである。








タイにて。⓵

川の価値を決めるのは何か。


その川が

生きている川なのか

死んだ川なのか


それを決定付けるのは水質ではない。


その川が恵みをもたらしているのか。

その恩恵を住む人は認識しているのか。


人々がその恩恵を忘却してしまえば

どれだけ透き通った川でも

それは死んだ川に他ならない。









早朝に関空を発って

タイには30日の昼過ぎについた。

想像通りの強い陽射しの洗礼を受けて

空港から50バーツで出ているA4のバスに乗り込み

一時間ほど揺られていると

目的地のカオサンの街に着いた。


カオサンは、ワットアルン寺院などが並ぶチャオプラヤー川沿いから歩いて15分ほどの場所に位置している。


チャオプラヤー川は372kmの長さを誇り、川幅も広く、川沿いにはグリルやBBQの店が立ち並び

日が昇っているうちは

釣りをしている現地の人や川沿いで楽しくお喋りをする高校生カップルがたくさん見受けられ


夜は電光装飾を張り巡らせ、大音量の洋楽を垂れ流すクルーズ船が往来する。


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(川沿いのビュッフェ。カニやエビ、肉が食べ放題で300バーツ。肉は豚肉。

ローカルの人で埋め尽くされ、観光客の姿はなかった。ステージではバンドの生演奏や女性歌手が美しい歌声を披露していたがタイ語なので何もわからなかった。)


川は茶色く濁り、若干の悪臭がする。

水質は日本の田舎の河川と比べて最悪だ。


しかし、この川が私を含む多くの人間を魅了してやまないのは、釣りをしている人しかり、カップルしかり、そこに住む多くの人間の生活を豊かにしてくれているからだ。


川沿いに寺院や学校、高層マンション、市場が立ち並ぶ様子を見ると、いかに昔からこの川を中心として、その恩恵を受けて人々は暮らし、街が発展してきたかが分かる。


住む者が恩恵を忘れないからこそ、この川は有名であり続け、人々を魅了する生きた川であり続けているのだろう。


(川沿いのグリルをはじめ大量に出されるエビは

この川というより

バンコクから車で1時間ほどいった隣県などで

田んぼで養殖されているものだが。)




話をカオサンに戻そう。


カオサンはタイの文化や慣習を学ぶには

良い拠点とは言えないだろう。


この通りの両側は、ホテルと飲み屋ばかりで

そこを歩く人の大半は、大きなリュックを背負ったヤドカリのような、絵に描いたようなバックパッカーかバケーションを楽しみに来たヨーロッパ人だ。


入り口には観光客を捕まえようと

タクシーが何台も並び

道ではその運転手が必死に呼び込みをしている。



飲み屋のオープン席に座って通りを見ていると

目の潰れた老人が、配偶者と見られる老婆に

支えられながらアコーディオンを演奏していて

金をねだられたり


サソリやクモの串焼きやワニの姿焼きの押し売り

に声をかけられる。


それも1度や2度ではなく

30分前と同じ物売りが

記憶をなくしたのか

再び同じ商品を持って声をかけてきたりする。



サソリやクモをこの人達が普段食べていないこと

は焼き鳥の3倍の値段を要求してくるあたりからも分かる。

そういう物珍しいものに、旅行者が興味を持つことを彼らが知っているからに他ならない。



つまるところ、ここは異文化理解の地でなく、享楽の渦にある歓楽街ともいうべきところである。



夜には大半の飲み屋が道にまで椅子と机を広げ

日本のクラブ顔負けの大音量で洋楽を流し

酒に酔ったアングロサクソンは踊り狂う。


ホテルの屋上のプールも深夜まで同様のことを

行なっていて

よく眠りたい人間はなるべく地表に近い部屋をとることをオススメしたい。



至る所で洋楽が流れ、ヨーロッパ人達に埋め尽くされたプールや店にいると一体自分がどこの国に来たのかわからなくなってしまうほどだ。


道にはみ出した飲み屋、大音量の音楽、踊る客。

レディーボーイ(ニューハーフ)を始めとする

多くのタイ人の客引き。

その間を歩くたくさんの異国の旅行者。

ただでさえ広くはない道幅なのだから歩くのさえ苦労する。



私はこの光景の中に身を置いて昼間見た、あのチャオプラヤー川を思い出していた。


洋楽や大量の旅行者を見ると

征服と文化破壊の歴史を思い返す者がいるかもしれない。


しかし、カオサンで働く人々は上手くそれを利用して外貨など大量の恩恵を受けている。

川には流れがあるように

ここにいる人間は大半が旅行者なのだから

いずれは流れ着いて故郷に戻る。

シフトが終われば家に帰るタイ人の従業員も含めここに留まるものはいない。


ネオンに照らされる、通りの人の流れはまさしく享楽の川に他ならない。


厳格な禁欲主義者や信仰心に厚い宣教師でさえ

そこに身を置くものは留まらず

快楽の流れに逆らわず、身を預け川をせき止めてはならない。


川の生死与奪権を握っているのは

そこに暮らす人々なのだ。


旅と放浪、

タイに行ってきた。


巨大魚を狙って

釣りをしたくらいの気持ちだったのだが。


自分なりにこの旅を整理していきたいが、

まずは、旅そのものについて考えてみたい。


退職したら海外を旅すると話していた友人から

出発前に


近代化を達成した後の日本社会にはアフリカだろうが南米だろうが情報があふれていて、それらの土地に旅立つだけではロマンチシズムは得られない。現代の出発は、閉塞して充実感を得られない日本社会からの戦略的な逃避でなければならない。


という村上龍の一節が

ラインで送られてきた。


戦略という大それたものなど

持ち合わせてはいないが


何らかの視点を持っていくかというのが

友人の解釈だった。


この旅に出る前、そして帰ってきてから

旅について考えている。



偉大な作家の中には

旅を愛した者が少なくない。


ヘミングウェイ

開高健

ブルース・チャトウィン



旅行と旅、旅と放浪。

全て似ているようで実際には異なる。


放浪の旅という言葉があるが

俺は放浪と旅は別物だと思う。


文化人類学者のフィールドワークと旅も異なる。


では、旅とは何か。


放浪とは何か。



もちろん明確な答えはない。

それは広辞苑に書かれているものではない。



金子光晴はわずかな費用でパリを目指し

帰国まで5年

放浪を続けた。


彼は詩で


かへらないことが、最善だよ。

それは放浪の哲学。



という言葉を残した。



一つには放浪と旅の違いは拠点の違いだ。

そして目的、目的地があるかの違いだ。


旅とはそこで得たものを持ち帰ること。

つまり帰る場所が前提として存在する。


対して、放浪はハナからそれを捨てている。


そして放浪には目的がない。

というよりは

ありのままを見て、見ること、感じることが

目的と言う方が正しいのかもしれない。


何かを見つけたい。

だが、その何かは分からない。

これは俺の考えでは放浪的だ。


自らが、白地のキャンパスとなって

歩き回るのだ。



旅とは何か。

それは虚構性によって構築される。


それが真理か、正しいか関係なく

そこに客観性は必要ないのだ。


自らが抱く虚構を確かめ歩くものが旅なのだ。


東南アジアの人はみんな笑顔、人が優しい!

という虚構を抱く者は

その虚構を確証すべく行動する。


(後日書きたいが、#笑顔が素敵系は大抵、観光地でお金をバンバン使うからという場合が多い。日々、日本で虐げられて愚痴っている資本主義を場所を移して金持ち側に回り、資本競争の勝利者側のロールプレイングを楽しんでいるのだ。

資産をばら撒く者には誰だって優しく、笑顔と紳士的態度を持ち、接するものだ。)



我々はその虚構性によって完成された

旅を旅行記として読んだり、映画として観る。


昨今、流行りのRUSや潜在意識として

これ片付けてしまうのは、

ロマンティックに欠けるので避けたい。


ただ、自らが打ち立てる理想や虚構のために

行動して、それを明らかにするのが旅だ。

その中では都合よく解釈が行われたり

不都合な事実は捻じ曲げられるかもしれない。


しかし、あなたが文化人類学者でなく

旅をしたいのなら

それで十分だろう。



タイのことは次から書いていきたい。


開高健


旅は男の船であり、港である。


と言った。


チャトウィンの紀行文に出てくるシェルパ


人間の本当の住処は家ではなく、道であり、

人生とは自分の足で歩くべき旅路である。


と言った。




旅の予定をギチギチに詰めたり、休みの予定を埋めないと不安になる人と仲良くなれない人間だが


あらかじめ旅には多少の虚構と対象は

必要となるだろう。


ここまで読んでくれた人は

これが決して

お城と写真を撮るとかいった

ものを指していないことは分かるはずだ。




旅ほど男をワクワクさせてくれるものはない。

だが自分も含めて、本当の旅をできている人は少ないだろう。





少なくとも自分の生き方に不満だらけで

何のために生きているのか分からないような人は

病院より先に

旅に出るべきだ。


旅とは安い物価に甘えて散財することで

資本競争の鬱憤を忘れるものでもなければ


日々のしがらみに拘束されるのが嫌になって

海外でギチギチにスケジューリングして

時間に追われる矛盾を創出するものではない。


鎖に縛りつけられた人間が

クロムハーツの鎖で自らを縛りつけ

それをSNSに写真をあげて

ラグジュアリーを演出したところで

三者から見たら

すべからく封印されしエグゾディア状態

にしか見えない。



旅先は居酒屋の延長でもなければ

質の高いクロムハーツの鎖で拘束してくれるようなものではない。


男諸君。

バーで女相手に人生を旅になぞらえた話をして

せっかくの酒を台無しにする前に

旅に出よう。



これは俺の言葉だ。





















漕げメロス。

俺は激怒していない。


今日も素晴らしい一日だった。



邪悪に対して人一倍敏感でもなければ、

王の暴政に激怒もしていないが

俺は旅立たなければならない。


俺の場合セリヌンティウスはいない。

セリヌンティウスとは俺自信なのだ。

自分が自分を信じてやれずに

いかに他人に信じてもらえようか。


ともかく俺はメロスと同じく

この初夏、満点の星空のもと

走り出すのだ。


妹の結婚式ではなく

神戸のランチクルージングに、

関空バンコク行きの航空機に、


間に合わなければ信頼も金も失うのだ。


ただ、メロスと異なるのは自転車に乗る点で

それは今のシラクサからの距離に換算して

およそ40kmだったと言われる

メロスの旅路に比べ

俺のそれが600kmだから仕方がない。


なおかつ3日後の日没ではなく3日後の昼前には着いていなければならない。

俺も人並みに神戸の船旅を楽しみたいから

四時間は寝たい。

それを鑑みるとかけれてせいぜい40時間だ。



昔、太平洋戦争で銀輪部隊というのが存在した。

南方作戦において、陸上歩兵戦力を高速移動させるために考案された自転車で移動する部隊だ。


昔の日本兵、特に下士官の気力は凄まじいものだったので勇気欲しさに調べると

走破距離はフル武装で一日に100kmだった。


私はフル武装ではない。

鉄帽も小銃も持っていないが

背中にはバンコク行きの荷物を背負っている

そんな最中で一日に350kmは可能なのだろうか。


ともかく眠らずに漕ぎ続けるしかない。

それではまた。