22歳の男の濁った目

汚れた目から世界を見てます。

生と死の街、ヴァラナシ。

先の記事に書いたように

僕の初めての相手である、このヴァラナシは"生と死の街"という別の名を持つ。



その由来はこの街がガンジス川(ガンガ)に面していることに深い関係がありそうだ。


ヒンドゥー教の聖地でもあるこの場所はインド人が生涯に一度は訪れたいという地で


人々はこの川で罪やカルマを清めるため沐浴する


罪を水によって清めるという浄罪的価値観はヒンドゥー教の寺院に沐浴場が設けられていることから分かるように、この宗教にとりわけ強く見られるが、その最たる例が、このガンジス川での沐浴である。


川沿いで焼かれる死体の数は1日に2000にも昇ることもあり、その灰が川に流れていく。


また犯罪者や乳児、蛇に噛まれて死んだ者は火葬ではなく川に流される。


ニルヴァーナ・涅槃(輪廻から解脱すること)のためにヒンドゥー教徒の肉体は死後はここに集められるのだ

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三度水に潜ってから、五回太陽に向けて手ですくった水をかざす。

三度の内訳はシヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマーである。





ガンジス川は世界一汚い川と言う人もいて

友人から上流ではWHOが新種のウィルスを発見したという話を聞いたが


AVで唐突に映る正常位の男優のケツのアップが

世界で1番汚いと思っている俺は全く汚いと思わなかった。

(あれは人の1日の活力を奪い去るのには十分なものだと思う。)


ガンジス川は日本の川とは比べ物にならないくらい川幅が広く中央部は流れが非常に速い。

向こう岸とこちら側が完全に川を境に隔絶されている感じがした。


信仰の壁を超えて俺はその壮大さに感動した。

泳いであんなに気持ちがいい場所は他にない。



沐浴していると川を赤ん坊と男の死体が流れていった。



沐浴が終わると火葬場を見学した。

木材で組み込まれた中央に遺体が置かれていて、その木材に火をつけて火葬する。


この火葬に使われる火は火葬場の下にあるシヴァの火で3000年前から絶やさぬよう薪がくべられているらしい。


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それにしては火は今にも消えそうで、誰も見張っていなかった。

これじゃあ美味しいウィンナーを焼くこともできそうになかった。


棺に入れられてから遺灰となるまでの行程を見せない日本の価値観からすれば、この行程を親戚でもなんでもない観光客が見られることに違和感があるかもしれないが


焼かれて肉の溶けていく頭蓋骨や、足。

人を焼く匂いに触れることがこの旅の目的だった。



人は全て死んで脳が機能を停止すれば

焼かれていく、肉の塊と同じだ。

不信心かもしれないが、グリルで焼かれる牛や鳥の肉と何も変わらない。


人間だけが特別なわけではないと思う。


死は映画や小説のように劇的なものではない。


三ノ宮のバスの一件のようにいつ、不意にやってくるかはわからないもので

特段、準備するものでもないというのが一貫した自分の死生観である。


死は非日常的なものでもドラマチックなものでもないと日本で多くの人が悟るのは、歳をとりスーツより喪服を着る回数が増えてからだ。


だが、それでは遅いと俺は思う。

限りある生を意識して謳歌するためには死をとらえることから逃げてはならないからだ。


日本に帰ってきて、インドと比べ歩道の綺麗さや、コンビニの利便性、景観の美しさに感動する。

しかし、それと同時に、決定的に何かが足りていないような感覚に襲われる。


それは紛れもなく、あの川を流れる遺体であり、薪の中で人が焼かれる匂いであり、道におちている牛や犬の糞だ。


生に不都合、不快な一切の事物が景観から削除されている。

そのおかげで人は快く、死に対する恐怖を感じることなく生きることができる。


しかし同時にそれは死と向き合わないことで、限りある生を遠ざける要因でもある。


毎日、ニュースで流れる死亡事故はどこか他人事でアナウンサーの読みあげる原稿は喫茶店で流れるBGMのように声ではなく単なる音として耳を通り抜けていく。


自分もいつ死ぬか分からないという意識は

何かを後回しにしたり、不健全に過ごすことを禁じて、限りある生を有意義にするものだ。


しかし、メディアは決して遺体を映さない。

街に糞や生き物の死骸はない。

多くの人にとって初めて見るのは老衰で亡くなる祖父母の遺体だ。


だが、自分が老衰まで生き長らえる保証などどこにもない。


かといってテレビで死体を映したり、道を糞や死骸だらけにしたいかと言えばそうでもない。


そういう自分はヴァラナシに

求めていた通りのものを見て、感じた。


太陽に水をかざした後、

現地の人が合掌して神に何か気になることを尋ねれば、神は答えてくれると言った。


自分は

精一杯やりたいよう生きてみますとしか言わなかった。

何も尋ねたいことはなかった。


死と接する、この街の人達の暮らしに本当に尋ねたかったことの答えは既に見ることができたからだった。