22歳の男の濁った目

汚れた目から世界を見てます。

ヴァラナシで射精した夜

人は例外なく快楽のために生きている。



風俗に足繁く通って、

金で若さを買うような性的快楽。


気に入ったブランドでインテリアを

統一して住む環境を心地良くしたいという快楽。


恋人と手を繋ぎ海岸に腰を下ろし夕陽を見る快楽。


仕事で成果を出して周りから認められる快楽。


快楽は上述した一義的なものから、

自己実現と結びつくような長期的、複雑なもの

にまで及ぶ。


そうした快楽への欲望と結びついて

広告やビジネスは生まれ、人々の購買意欲と結びついて消費社会が生まれる。



快よいものを見たとき、または想像したとき

人は興奮を覚える。


電車の中でこれから行く風俗店の出勤表を見る人。


遠足の前夜、なかなか寝付けない小学生。


タピオカの列に並ぶカップル。


スタンドで選手入場を待つサポーター。


興奮というのは何も性的なニュアンスしか持たない言葉ではない。





もともとヨーロッパで言うところの貴族の役目は、自分の農園やらの奴隷が労働を肩代わりしてくれているおかげで、そうした快楽をたくさん知ることだった。

ポロ、乗馬、舞踏会、鹿狩り、云々。


sophisticated、

直訳で洗練されたという英単語は

どの大学入試用の単語帳にも載っているのに

日本で洗練されているなんて言葉は

それこそ広告以外で目にしない。


しかし、海外ドラマを観ると

度々、人物の形容に際してsophisticatedが用いられていることに気がついた。


sophisticated、洗練されているとは

そうした快楽を昔から教えられて育ち

あらゆる快楽を知り

なおかつ節度ある付き合い方をしていることを指すのではないだろうか。


パチンコと風俗店と居酒屋だけに行動範囲が限定されているのは洗練されている人とはいえない。


奴隷という概念がなく、すべからく自由市民である今日、限られた快楽しか知らないのは不健全だ。


同じ快楽を同じ次元でやっていても飽きるからだ。


その為に働いてお金を稼ぎ、不満が出ないよう雇用者もちょうど飽きないあんばいで昇給させていく。


この快楽は今日では趣味という言葉で置き換えられる。


学校教育では快楽に走るのを禁じて、

共同体の中での処世術を学ばせているようで

しっかりと世界史なり美術なり音楽なり

快楽へ導くヒントを与えている。


それらが快楽の幅を広げてくれる

感受性を豊かにしてくれる材料なのだが


働くようになると

意外と趣味が全くないという人に会う。


先に言っておくと消費と快楽は違う。

パチンコや風俗、ショッピングは消費であって恒久的に快楽を与えてくれるものではない。

消費した、その日はなんだか嬉しいが

長続きせずまた消費に走る。

消費から抜け出せなくなる。


目が死んでいる人は快楽の種類を知らずに育ち

感受性に蓋をした精神的インポテンツだ。

いわゆるEDだ。


"何を見ても何かを思い出す"という

ヘミングウェイの短編を引き合いにすれば

"何を見ても何も感じない"人たちだ。


興奮の仕方を忘れ、そのことに半ば気づき

焦って風俗店に行って束の間の興奮を得る。

しかし、それは偽りの快楽、消費でしかない。


フィッツジェラルドの『華麗なるギャッツビー』の中で努力して成り上がったギャッツビーが、生来の金持ちのブキャナンに激昂する場面があるが


2世タレントとか金持ちの息子を親の七光りという人達が完全な僻みからそう発言していることがわかる、いい場面だ。


快楽の知識において生まれつきの金持ち、石油王、地主、社長の息子に勝てる成り上がりはいない。


それを素直に受け入れなければ何も始まらない。


僻みと愚痴をつまみに酒を飲んで

生涯、興奮を忘れて棺桶に入ることになる。

死ぬ間際まで勃ち続けて、棺桶から死後硬直したアレがはみ出て葬儀会社が困るようなことにはならない。


本題に入ろう。

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インドは一部の都市を除いて

街と人が同じ時の歩み方をする。


この国では、昔の日本のように

共通の基盤の上に成り立つ地域の暮らし

コミュニズム的な意識が機能している。


空からは無数の凧の糸が垂れていて

それを目で辿っていくと無我夢中になっている子供達がそこら中の建物の屋上にいる。

小雨が降り始めると皆慌てて凧をしまい建物に入り、雨が上がるやいなや皆また凧揚げをしに屋上にでてくる。


日が落ちて夜になると、街全体が暗くなり、静かになる。

そして眠りに落ち、日が昇ると皆起きだす。


街で祭典があれば老若男女問わず沢山の人が集まる。


小学生の時はリアルタイムでエンタやめちゃイケを見て、翌日の学校で話していた自分ら世代にはどこか郷愁を感じるような暮らしだ。


そんなことを考えながら屋上でタバコを吸ってると停電が起き、ヴァラナシの街は暗闇に包まれた。


非常用の電気や代替の回路を持つ施設はなく

遠く離れたガンジス川で行われている祭典の光や音以外は何も入ってこない。


美しい光景だった。




俺はこれを見て射精した。


下品に思われるかもしれないが

異性の裸とポルノ写真以外に興奮できない方が

下品だと俺は思う。


射精したことで、忘れさられやすい視覚的な情報や感動がより深く肉体に刻み込まれる感覚だった。


感受性に蓋をして、目が死んでウォーカーみたく生きるより、

壮大な自然や宗教画、建築物を見て勃起してしまう方が健康的だ。


だから美術館で変な歩き方をしてる人を見たら

「恥ずかしいことじゃありませんよ。ほら、見てください。僕も勃ってます。」

と話しかけてみようと思う。


そうやって、留置所の窓から見える月でまた勃起してしまうのかもしれない。