パラドックスバックパック
今、僕はマトマタにいる。
ベルベル人というのはバルバロイからきた蔑称で彼ら自身の名前ではないが、ここでは便宜上、馴染みのあるベルベル人という表現を用いたい。
ベルベル人は北アフリカに住む移動を繰り返してきた歴史を持つ民族でモロッコやアルジェリア、チュニジアなどに住んでいる。
そして、ベルベル人を遊牧民として勝手に定義づける日本人旅行者、バックパッカーのブログも散見される。
僕は昔から移動と定住に興味があった。
nomadという言葉は今日、ビジネス業界でも使われている。
時間や環境に縛られない仕事形態をとる人をそう表すらしい。
結論から言うと、僕はベルベル人は遊牧民ではないし、nomadはそうしたビジネス形態を指すには適さないと思う。
彼らはアラブ人やローマ人の侵略から逃れるため移動し続けることを強いられた民族だ。
最終的に彼らは山合いの内側や、岩をくり抜いて外からは見えないように工夫して、常に外敵の目を意識して生活してきた。
彼らは侵略活動の被害者で、彼らの歴史は移動というより生きるための、民族を守るための逃避の歴史だ。
アラブ人に侵略された街に残されたベルベル人の建築物を見ると、壁の煉瓦には美しい装飾がほどこされたり快適に過ごせる工夫がめぐらされている。
決して移動を前提とした、家づくりではなく
彼らはここに住み続けることを望んでいたに違いない。
彼らは利便性を追求したミニマリストなどではなく
部屋を気に入ったインテリアで満たして、住む環境に彩りを揃える私達となんら変わらない望みを抱き続けていたのだ。
山の内側にあるベルベル人の集落跡。
素晴らしい出来だが彼らは12世紀から約100年間しかここに住まなかった。
彼の祖父たちはアルジェリアから逃げてきたのだと言う。
閉塞感や退屈を恐れてバックパッカーのように定住よりも移動を主とする遊牧民に憧れる人も少なくないのではと質問した。
彼は多くの人が想像する遊牧民のイメージや歴史は勝者によって作られたものだと言った。
チュニジアの歴史はフランスによって作られたと。
より良い場所をもとめて絶えず移動するという遊牧民の暮らしは間違った想像で
大半の遊牧民は良い場所から悪い場所に追いやられただけだ。
肥沃な場所を追われて、定住を夢見ながら、常に怯えて、生きるための移動を強いられている。
追いやった側は発展を遂げ、肥沃な街を食い尽くし、人と建物が飽和状態になると閉塞感が満ち溢れて移動を夢見る。
そうして、遊牧民の暮らしに自分勝手な理想像を押し付けて興味を抱くのだ。
我々は、侵略と遊牧の違いについて、もっと自覚すべきだ。
豊かな国で何不自由なく定住に恵まれて育った我々は、閉塞感にぶつかると冒険や移動、自由に憧れる。
しかし、これは壮大なパラドックスをはらんでいる。
彼は歴史学者だが、自分の民族の正しい歴史がいつの日か勝者によって紡がれた都合の良い嘘にかき消されないよう外国人のガイドをやっている。
話している時の彼の目は真っ直ぐで、語気は力を帯びていた。
普段は陽気で冗談が好きな彼の口元も自分の民族の話になると緩むことはなかった。
ヘミングウェイは言った。
この世界は素晴らしい。戦う価値がある。
僕は昔から自分より強大な敵と戦う人を見ると興味が湧いた。
この構図は小説や映画でも用いられる人の心を惹きつける一種の公式だ。
だが、現実となると話は別で、
戦い方を忘れ、あぐらをかいているばかりで、腹が出て、いずれ電動カートでしか移動できなくなるような人や
理由や正義はなくても、とにかく噛み付くだけのことを戦いだと思っているジェームス・ディーンの生まれ変わりのような人で溢れている。
今やそれは誰かが編集した歴史の教科書や、小説、映画の中だけのものになった。
彼の戦いは魂の戦い。
飽き飽きして旅に出て、仲間と出会い、終始笑顔のまま、楽園に辿り着くようなテーマパークのアトラクションや絵本の中に散りばめられた侵略者の身勝手な嘘に気づかせるための戦いだ。