22歳の男の濁った目

汚れた目から世界を見てます。

嗚呼、マズローよ。君はなんと偉大なことか。

インドへの往復はタイ乗り換えだった。



ルポやガイドブックに書いてあるように

夜のバンコクは快楽と狂乱の街だ。


体感的な蒸し暑さは何も東南アジアの気候的特徴からくるものではなく


ツーリストや外国人居住者の享楽を前にした高揚感や、日本をはじめとする外国企業などの介入により推し進められる急速な都市開発に対する人々の期待がこの熱気を生みだしている。



バンコクのナイトスポットで

最も我々が聞き馴染みのあるものはゴーゴーバー だろう。


そしてご多聞に漏れず

天竺を目指す我々、三蔵法師一行は往復のトランジット、つまり2度

人々が刹那的快楽を追い求めてやってくる

ゴーゴーバー密集地帯であるナナプラザへと、足を踏み入れたのである。



私と一緒にガンジス川で沐浴した友人は

往復、つまり計2回の性交に走ろうとした。

彼はおそらく業を洗い流すどころか

他人が川に洗い流した全ての業を吸収してしまったに違いない。


純粋無垢でスポンジのようになんでも吸収してしまう彼の美徳も、ガンジス川の前では何故か悪徳に変わってしまったのである。




マスターベーションリストカットと同じだと思う。


僕にとって

好きな相手との性交以外はすべからく自傷行為だ。


僕は何もここで、

新垣結衣主演、ネットの映画評価星5つ中の星2を叩き出した、あの不朽の恋愛映画「恋空」のように頭お花畑的な価値観を披露したいわけでも




ここにきて、好感度が欲しいわけでもない。


心の底からそう思うだけだ。


賢者モードという言葉があるが

概して非生産的な射精の先にあるのは

無我の境地や梵我一如の思想などではなくて

激しい後悔と自己嫌悪だ。


僕の脳内で、誰かがこう囁くのだ。

「この時間、一体なに? てか恥ずかしくないの?」


そうして射精のあとは僕はいつも

頭からクレパスに真っ逆さまに落ちていく。

深い深い自己嫌悪の谷底。

そこには幸せを運んでくる陽気な青い鳥も

愉快な歌を口ずさむウサギも

長靴を履いた猫もいない。


そこは光一つさしこまない

あらゆる生命体が死に絶えた後の

荒涼とした大地で

僕はちょうど何かの動物の頭蓋骨らしきものに腰をかけてうなだれている。


しかし、いつしかこうした射精による自傷行為、自己破壊の営みがクセになってしまう。


本音と建て前が美徳の我が国では

コンプライアンス遵守が叫ばれるようになり

頭から水をぶっかけてくれるような

人格を全て否定してくれるような

涙が出てくるほどボコボコに口撃してくれるような経験はほとんどできない。




本音が言いにくい環境は住みよくもあり

SNSのタグ付けのように人間関係全般に満ち溢れる、拭えない嘘くささを生み出す側面も持つのではないか。



そうした充満する建て前の中で

僕は自己破壊を求めるようになり

自分で自分を否定することで

頭から冷や水をぶっかけるようになった。


その証拠に昔から

本当に愛のあるセックスによる射精以外は

射精したらすぐに北の国からのテーマを聞く習慣があった。


富良野のラベンダー畑が脳内に映し出されると

対比して自分がしたことの醜さがありありと感じられる。



自分の醜さや弱さを本当に理解した先に進化が待っていると僕は思う。


それから目を逸らすのは成長を妨げることにしかならない。


こうして、僕は何らかの進化を遂げたのか

ナナプラザに行っても2回とも何もする気が起きずバーでwhere is the love?を聞きながらビールを飲んでいた。


ジョブズやレイ・ダリオなど

名だたる成功者はインドのヨーガ思想、瞑想に興味を持ち生活に取り入れている。



成功者になりたいわけでもないが

僕も以前から興味があった。

でも今回、時間の都合でリシュケシュに行くことはできなかった。



どうやら私は私なりのやり方で

瞑想を修得したらしい。

それもリシュケシュでなく

ナナプラザのバーで。


ビールの瓶に、全ての業を吸収した友人の顔が反射した。

彼の顔は何故か愛のあるセックスのあとのような汚れのない笑みにつつまれていて、思わず自分の飲んでいるビールがエビスビールではないか二度見した。



いつもは外国で物乞いにお金をあげることはしないのだけど、その帰り道、お金をいれた。


なんだか偽善者みたいでこんな事言うの嫌だけど

悪い気分じゃなかった。