22歳の男の濁った目

汚れた目から世界を見てます。

竜馬という病

病い

意味  病気、わずらい


それは死に至らしめるものから、そうではなくとも何らかの支障となるもの。


医術というのがどれだけ発達を遂げても解明されていない病もある。見つかっていない病もある。


今日、提唱したいのは竜馬病。

いやもっと平たく言えば、司馬遼太郎病。


この病を発症すると、

発症者は自分が只者じゃない、俺こそが日本を変える、日本を今一度洗濯したく候などという考えに四六時中苛まれる。


多くの場合、この病を発症した者に共通する原因として挙げられるのが『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』などを読んだことだ。


司馬遼太郎はその描写力、人物の描き方、展開から読者を物語にひきつけるのがうまい。

それがゆえに読者は主人公に自己を容易くというか過剰に投影しやすい。

その結果、自分は天から何かを変えるために産み落とされた者なのだと思うようになる。


しかし、実際にはただ精子が一億総火の玉した挙句卵子に奇跡的にたどり着き産まれたのが私達です





さぁ、症状の段階を追って見ていこう。





phase0


司馬遼太郎を周りに勧めるようになる。

幕末〜維新の歴史に興味を持つ。



ちなみにここまでは単に

本や歴史が好きな健常者。勉強家。


phase1


よく耳をすますと、言葉の端々に小さく控えめなぜよをつけている。


この時点ではまだ憧れと謙遜から控えめな"ぜよ"をつけるのが特徴。それはまるで小鳥のさえずりのような。または海岸で夕暮れ時に男女が交わす甘い口づけのようなどこかおくゆかしく甘酸っぱい"ぜよ"である。


この時点で治療すれば完治は容易いが中々病状の自覚が持てないのが難点。



phase2



概ねこの段階は『竜馬がゆく』5巻目あたりに差し掛かる時期にあたる。

このあたりから自分が竜馬になれる錯覚に陥り、

それまでの控えめな"ぜよ"が幻想だったかのような

強烈な"ぜよ"を語尾につける。

それはあたかも出会った時はあんなに控えめでいじらしく可愛かった異性がいつの間にか尊大な態度をとるようになったかのような。


この段階までくると、むしろ語尾のぜよを強調するために、文自体を弱く落ち着いて発声する。

全ては語尾の"ぜよ"にむけて緻密に計算された会話になる。


この勢いは話し言葉に止まらない。

ワードやラインでも気がつくとぜよと打ち込んでいてback spaceを連打する羽目になる。

最早、ぜよだけで構成された文章が存在する。


この段階の患者同士の会話は全て "ぜよ" のみで成り立つ。


「この後、一件どう?」の"ぜよ?"


「いいね、いこうか!」の"ぜよ!"


「一杯目は生でいいっしょ?」の

メニューの生を指差しながら上目遣いの"ぜよ?"


「わかってるね〜お前」の"ぜよ、ぜよ〜"


云々。


phase3



傘の持ち方が変わる。

腰に刀を帯びているかのように傾向する。

このあたりから患者は凶暴化し、社会性を失いかける。


全てを幕末に例えたがる。

例「お前は平成の桂小五郎だな。」

     「あの子は俺にとってのお竜なんだ。」


云々。


話がわからない者は腰の傘で斬りかかる。

注:ビニール傘で人は切れません。


右手を懐に差し込んで歩くようになる。


二人称がお主、主になる。


お風呂に入らなくなる。フケを撒き散らす。




phase4

内閣総理大臣を目指す。

この時点をもって症状は完成されます。

そうして、昔のあの人はもう帰ってきません。

入浴という概念が取り払われます。



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写真はphase3の友人。

この時に気づいてあげれば、あんなことにはならなかった…







貴方の友達は語尾にぜよをつけていませんか?

この病の恐ろしい点はなかなか自覚症状が持てないということ。

そして気がついた時、それはもう取り返しのつかないところまで来てしまっているのです。


友人が大切ならいち早く異変に気づいてあげましょう。

大切なのは自覚させてあげること。




そのためには主らが周りに目を向けてあげること






このことだけは忘れないでほしいぜよ。