22歳の男の濁った目

汚れた目から世界を見てます。

タイにて。②

旅の目的である巨大魚の釣り堀は

宿泊していた

バンコクの市街地から

車で北に1時間半ほど上った

ノンタブリーにあった。



ノンタブリーはバンコクに隣接する

バンコク首都圏である。




単調な一本道だった。


地図で見ると県境は曖昧だが、


車道の両脇に三菱やパナソニックといった日本企業の看板や、高層ビルが立ち並んでいたのが

田園やエビの養殖場ばかりになり

視界を遮る遮蔽物が少なくなると

車がノンタブリーへ入ったことが分かった。





タイの巨大魚釣り堀は

日本のメディアでも度々取り上げられている。


そうしたツーリストの人気もあって

ゾウに乗るツアーや水上マーケット同様

これを外貨獲得の好機と捉えた彼らは

この国の安い物価感覚からすれば

異常に感じるような価格を要求してくる。


それゆえ

この日、私を釣り堀まで載せてくれた

タイ人のドライバーも

近くにこうした場所があるのに

巨大魚を釣ったことはないという。



そうした環境もあいまって

外国資本の流入が彼等が快楽を知る機会を

奪っていることに反省はしつつ

価格帯の高い有名な釣り堀を避けて


比較的アクセスの悪い

このノンタブリーの釣り堀を選んだのだが

それでも釣竿や入漁費、餌代を含めると

2500バーツにもなった。



ゲートをくぐり、釣り堀に入ると

それはどこまでも続く一本の河

のように感じられた。


日本の釣り堀といえば

釣り堀とは言え、生簀のようにこじんまりした

所に魚が押し込められているような場合が多く

釣り堀で釣るのに苦労したという話は

あまり聞かない。


しかし、こうもスケールの大きいものになると


最早、区画の中から

魚が逃げれない事が担保されているという概念上の事実を除いて日本のものと共通点はなく

釣り堀であっても

閉塞感や退屈感は感じないのだから

不思議だ。




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入り口向かって右側が日帰りの入場者向けの足場

になっていて

対岸のコテージは宿泊者用になっている。



川の構造は恐らく日帰り入場者の足場から

コテージ川に向かって

深くなっていて

必然的にコテージ側に大きな魚が潜んでいる。

それゆえに日帰りの挑戦者は

宿泊者よりも当然

仕掛けを真っ直ぐ、遠く投げる技量が

求められる。


日本の河川でも時たま、鯉が跳ねたりして

水面に飛沫を立てる光景が見受けられるが

日本の鯉などとは比べようもない

大きさの淡水魚がいるのだから

時たま、見えるそうした飛沫や波紋、

また、それを起こしたであろう魚の尾ビレも

鯉のものとは比べようもない。




日本人でも釣りを趣味にする人は少なくない。

ネットで調べてみると

タイの巨大魚に魅せられた日本人の記事が

たくさん出てくる。


それでも、やはり日本人に比べて

幼少期から狩猟に親しみのある西洋人はハンティングのみならず、釣りにおいても巨大な個体への征服欲というものが強いらしく


この日、釣り堀で見かけたのも 

私以外は

コテージに泊まっている

白人の男のグループのみだった。



この釣り堀でも特別大きな魚を釣り上げた

歴代の勝者にのみ

入り口に飾られることが許される

名誉ある数々の写真の中にも

嬉々とした表情を浮かべて

打ち倒した相手を抱えている

西洋人の姿を多く確認できた。





なぜ、人は巨大な獲物に惹かれるのか。



その理由は、可食部分が多ければ、それだけ長く食いつなげられるという単なるホモ・サピエンス的な潜在的記憶の継承ではないだろう。


恐らく

人々が"闘争"それ自体を求めているからに

他ならない。


現代社会の中での闘争は明らかに存在する。

会社で実績を出すことによる出世闘争。

住む場所や家、持つ車や時計に表される

所得闘争。


闘争が存在して始めて勝者と敗者が

生まれるのだから

格差があるということは

そこに闘争があるということの証しである。



しかし、先にあげた現代の社会的闘争は

ネットによる情報伝達の高速化や人間関係など

数多くの要因によって複雑化している。


それに比べて、狩りや釣りは

自分と相手の二者間による単純な闘争である。


自然環境は影響する要因であるものの

社会的闘争に比べれば純粋な闘争として

その実体を捉えやすい。



所得を得るために人は闘争するのか?

人は闘争の結果に取り憑かれているのか?




闘争とは単に打ち勝てばいいものではない。

相手が明らかに格下であるより

苦戦を強いられるくらいの強敵を

打ち倒した時の達成感や快楽は大きい。

より大きなカタルシスを得るためには

より強大な相手が必要になる。


ということは、誰しもが経験則から分かる以上

人は闘争の生産物のみならず

闘争それ自体を楽しんでいることになる。



うどの大木という言葉がある。

体が大きいが役に立たない人を揶揄する際に

用いられる言葉だ。


しかし、狩猟や釣りをする人間は

大きい個体に対して畏怖と尊敬の念を持つ。


野生においての大きさは

生き延びてきたことの証明であり

その個体の強さと賢さを

一目で相手に分からせるものなのだ。




鮎釣りに行った時の話だ。

ある程度群れで固まって泳いでいる鮎たちから

少し距離を置く型で

大きな鮎が泳いでいた。


群れている鮎は何度か釣れるのだが

その大きな個体を釣ろうとしても

他の鮎達のように簡単に餌にくいつくことはなく

結局、夕方までやってみても

その鮎は釣れなかった。



大きくなるまで偶然生き残ることはなく

ペットショップのケージの中の生き物と違って

野生の個体がそこまで生き残るためには

賢さが必要なのだ。


野生動物で、うどの大木は存在しない。

それを知った男たちは

達成感と快楽を満たすべく

また闘争それ自体を美しくすべく

大きい個体に畏怖と尊敬の念を持って

挑戦するのである。