人生ひとり旅。
題の 人生ひとり旅 はよく行っていた店に飾ってある山田洋次監督の色紙に書いてあった言葉だ。
テーマパークはあまり行かないのだけど、人生は冒険だ。みたいな言葉がディズニーかなんかのアトラクションの出口にあったと記憶している。
人生を旅とか冒険になぞらえる言葉は数多くあるのだけれど一体何人が本当に旅を、冒険をしているのだろう。
昔から自分探しの旅というのが嫌いだった。
そんなものは距離とか世界じゃなく主体次第の問題だと思っていたからだ。
では、何故今こんなにも旅に出たいのだろう。
それはおそらく自分を探したいんじゃなく、壊したいからだ。
自分壊しの旅。
当然の話だが自己は環境によって形成され認識される。
自分らしさなんてものは他人と比較することで初めて認識される。
うまれてから死ぬまで独房で暮らす人は自分らしさを認識することもない。
自分らしさを認識するうえで7つの大罪は役に立つ。
昨日、セブンという7つの大罪になぞらえるシリアルキラーの映画を観た。
高慢。
妬み。
強欲。
肉欲。
大食い。
怒り。
怠惰。
これらが自分の生き方を左右していない人間なんていないんじゃないか。
いたとしたら、それはおそらくキリストの生まれ変わりに他ならない。
なぜキリストは産まれたのか。なぜキリスト教は誕生し7つの大罪を禁じたのか。
それは狩猟民だからだ。
自己実現の塊。目標への克服の連続。
ハンターは山に入ってから獲物を仕留めるために雪を掻き分け、足跡を追って道無き道を行く。
生きるために獲得する、獲得するために克服する
これは広くはアングロサクソン、ヨーロッパ、アメリカに通ずる民族性だろう。
対して、農耕民。
自然の影響を受ける、耐え忍ぶ。
天象を克服はできない。後追いになる。
(今は、科学技術を使って、品種改良ができるからむしろ農家が狩猟民のように克服している)
前者の自己実現型だけでは国家、共同体が成り立たないので、行動規範が必要だ。
そこで7つの大罪が産まれた。
日本人は7つの大罪なんかなくても
農耕型国家で五人組など共同体に仕える生き方が
民族に根づいている。
狩猟は追い込み猟などはあれ、1人でもできる。
農耕は1人ではできない。
だから、そうした仕組みができ、根づいた。
だが、7つの大罪を、欲望を捨てていい事はあるのか。
二宮金次郎や西郷隆盛は指導者でありながらボロ屋に住み、木綿の服を着て、質素な暮らしをした
今、7つの大罪を、欲望を否定して共同体に飼い慣らす人間は、都内のいい物件に住み、よく仕立てられた服を着て、飼ってる犬まで肥えている。
男は浪漫を捨てたら老化をたどる。
他者に夢や浪漫を強要して投影する。
右手に浪漫、左手に現実とはどこかの企業理念だが、ともかく浪漫を捨てたらおじさんだ。
その見方をすれば、おじさんみたいな若者もいるし、若者みたいなおじさんもいる。
浪漫というのは究極の欲だと思う。
ここで冒頭の探検の話に戻る。
今日、1人の探検家と話した。
探検は征服の歴史だという話を聞いて
なぜ昔からインディージョーンズが大好きなのか
冒険と聞いてワクワクするのかに気づいた。
コロンブスに代表される、多くの探検家は文化を破壊してその土地を西洋化した征服者だ。
ラス・カサスの報告に従って言えば虐殺者だ。
インディージョーンズも、罠に代表される先住民の思考に打ち勝ち、財宝を博物館に持ち帰る。
征服だ。
究極の欲望は征服欲なのだ。
美しい異性と付き合う、征服欲。
高層タワーマンションに住み下を見下ろす征服欲
自分の考えを正当化したいという征服欲
そういう人たちばかりじゃないのはわかっているけど、欲望を全否定して共同体思考に落ち着くのは不健全だ。
狩猟民にならなきゃいけない時はある。
昔、生死を賭ける仕事がしたかった。
そうやって大学を選んだ。
死が遠ざかることが嫌だった。
死を自覚したところ、生への渇望、
そうした環境から芸術は発展した。
絵画も映画も音楽も。
訴える力を持つのは必ずそうした芸術だった。
僕は洋画ばっかり観る。
邦画はやはり、共同体や人間関係にフォーカスする。共感するツールになりつつある。
そうした共同体の陰鬱性とか残酷性を描いたものは名作とされる。
現代美術を見た時に印象に残ったのは
外国人は1人とかできて、黙々と鑑賞して回るのだけれど、日本人の多くは作品を指差した写真をお互いに撮り合ったりしていた。
悲しくなった。
この国はいつからか文化後進国になったらしい。