22歳の男の濁った目

汚れた目から世界を見てます。

私の夢。



自分の新しい夢が

久しぶりにかすかだが見えた。


その為のプロセスもだ。




身の回りの世界が再び動き出したような感覚に襲われた。


家の軒先にとまったまま、動きをやめてしまい

埃を被ってしまっていた鳥が空へ繰り出し、


夏に入っても、自らがなんたるかを忘れて実をつけることを怠ける庭のピーマンが思い出したかのように太陽の光がいらぬくらいに見事な緑色の実を創出して、


海岸で、家主をなくして行き場をなくし、途方に暮れる貝殻にヤドカリが命を吹き込み、新たな旅路についた。




昔から、どこか冷ややかな目を持つ周囲に嫌気がさして、反発して生きてきた。

中高生の○○くんグループとかそういう派閥みたいな低次元の安全保障みたいなものに嫌気がさしてからは全く気にしなくなった。


それは、好きなものを好きというと黒歴史とか痛いとかいう、そういう思春期的な攻撃方法しか知らない年頃の何か生きがいを見つけた人間に対して自分がまだ見つけられていないがための不安をなくすための利己的な攻撃に対する俺なりの防御だったのである。


中学一年であぁ、俺はプロバスケ選手にはなれないのだと悟ったあの日から夢なんて言葉の響きに気恥ずかしさを覚えずに言えるだけのビジョンは見えないままだった。


常に中高6年私立に行かせてくれた親とか周りの友達の目を嫌でも意識していた。

三者の目と一人称の視点を考えた時に、

自分が将来それを仕事にしている自分は

常に第三者の目で俯瞰で映し出された。

人のために働く自分を観ている"自分"


将来、それをやっている姿を想像するとき

その映像が第一人称の、自分の目に映し出される光景なのか。

目の前には操縦桿があるのか。


はたまた

三者の目で自分を俯瞰で見ているのか。

操縦桿を握る自分をどこかから観ている誰かの目線なのか。



小学校の将来の夢とか、高校の三者面談とか

自分の思いを吐いたのではなく

全部どこか見た目がいいものを仕立て上げる

作業だった。


僕の場合は高2の三者面談でプロレスラーと言ったら母親がハンカチを用意したのを見て自衛隊の幹部になることを決めたわけだが


とにかく皆と同じ一般の大学に進むのは面白くなかったから選んだ。

大学で得た仲間や成長は宝だ。

だが、以前として自分が何に向かって生きているのかはわからないままだった。


もう長すぎて読む人もいなくなるので

今日見つけた夢の話をしよう。


俺の男らしくなりたいというアメリカのマチョイズム的な価値観は家庭環境からきたものだろうというのは前にも書いた。


今日、図書館であてもなく調べ物をしていると

全く同じ家庭環境から生まれた男を知った。


アーネスト・ヘミングウェイだ。

パパ・ヘミングウェイと呼ばれ、ロストジェネレーションを代表する作家でアフリカでハンティングやカジキの釣りに興じる私生活も相まって彼は今でもアメリカの男性的なシンボルだ。



彼の母は、元オペラ歌手で医者の父親の収入の20倍を稼いでいた。

その為、父権が完全に失墜した家庭で育った。


彼は、死を間近に体感したい思いから、第一次世界大戦に志願し、医療車の運転手として従軍した。そこで彼は致命傷を負って、10年かかって『武器よさらば』を書いた。


俺が自衛隊に入ったのも、強い男に憧れるのも

釣りも好きで狩猟を今勉強しているのも

老人と海』しか読んだことないし、意識したわけではないのにヘミングウェイ只ならぬ繋がりを感じた。


俺はヘミングウェイにならなければならないのだ

次は彼にならい、ジャーナリズムの道に進みたいのだがそれまで少し時間があるので

幸い9月、成田発の航空券はとってあるので

二月ほどヨーロッパを1人で観て歩き

スペインでは彼が愛した闘牛を観て



12月には友人のツテが通じれば、狩猟会を通じて2週間ほど狩猟に触れたいと思う。



この夢が果たせなくとも、その時は彼のように猟銃でピリオドをうたないことをいのる。





very superstition.

Very surperstition.

まさに迷信だ。


で始まるスティービーワンダーのsuperstition

ばかり聴いている。


初めて飛び込み台からプールに飛び込む少年が

落ちても死なないよね?

と心配そうに何度も友達に尋ねるように。


僕はスティービーワンダーのsuperstition

を再生する。


全てが迷信だと、

全ての閉塞感をもたらす常識が、

全ての人の行動を縛り付ける第三者の目が、

全ての自分を構成してきた何かが、


迷信に過ぎないのではないかと自分に尋ねる。

そう信じたい自分の裏返しなのかもしれない。



多くの人は無駄を嫌う。

それは合理的な人が増えたからだ。

でもこれも迷信じゃないか?



テレビをつまらないというのは

自分の実利に結びつかない情報を高度化した文明国では取るに足らない情報として処理してしまうからだ。


カンブリア宮殿や、ビジネスサテライトを観るのは常に、何か成長していないと不安だからだ。


本や新聞を読むのも、筋トレをするのも

全て自己が停滞することへの恐れだ。


しかし、大局的な無駄を見ないようにして、見えやすい小さな無駄を消し去った先に何が待っているのか。


無駄を削いで行き着くのは文明の発達だ。

文化は一見無駄から生まれる。


文化とは、先人が灯した灯篭の火を消さぬように火を繋いできたものを言う。

火なんて非効率だからLEDにしましょうと、水を掛けた瞬間にその火はそこで途絶え、文化の灯篭は消え去るに違いない。



まぁ、こんな童貞じみた話をするのは

これから自分がするすべての無駄を肯定的に

捉えようとするからであり、

謂わば、迷信を疑う自分が、新たな迷信にすがるというパラドックスを抱えていることは火を見るより明らかだ。


とにかく関西空港発のアジア行きの航空券の方が成田や羽田のものより一万円安いと分かった私は、神戸のランチクルーズのお誘いを受けていることもあって関西に向かわなければならないが本当に

航空券を節約しておいて、新幹線やバスという移動手段に高額な金銭を払うのが馬鹿馬鹿しく思えて、片道600km、山2つの道筋を自転車で行く事を決意した。


とは言え、無駄がどうこう言ってもたかだか移動に3.4日もかけるのはやはり馬鹿馬鹿しく


これにはかけれて1日半だろうと思う。

1日半というと36時間な訳だが

これは時速20kmで走り続けて6時間休憩を挟める算段である。



たかしくんは家を時速10kmで出発しました。

12km離れたお菓子屋さんに着くのは何分後でしょう。

という問題を嫌になるほど中学受験でやらされた


俺はたかしくんじゃないから、時速20kmを守って不眠不休で走り続けるなんていう

映画のスピードや

エボルタ君みたいな

事はできやしないが、

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写真はエボルタくん。登りたくもない綱を命がけで登らされても文句1つ言わない姿には心を打たれる。



中学受験の時に問題を複雑化させるための

たかしくんは5km行ったところでひろしくんと会って30分話しました

とか

6kmの場所でたかしくんの自転車は壊れてしまい修理に45分かかりました

みたいな文章を見るたびに


おい、たかし。てめぇ、12kmくらいさっといけよ

と思っていた少年だったから

やはり600km先の関西にむけて神奈川県を出発するひろきくんは寝ることも立ち止まることもやはりできないのだろう。


僕の体験は、おそらく簡単になり過ぎて中学受験では難関中学の問題に出ないのだろうけれども

小学生とかで塾に入ったばかりの

算数が苦手な子の味方になることは間違いない。


これをアホらしいとか

はいはい。無駄。という貴方。

消費社会の中で、稼いだお金を使うことでしか自分の生活を彩れなくなったのならば、貴方の36時間には何の意味があろうか。

(お金の大切さを分かってないわけじゃありません。分かってなかったら新幹線でいくもん。)


隣の芝は青いという言葉が大嫌いだった。

隣の芝が本当にいい芝なのか

はたまた日光の関係でそう見えていただけなのか

それは芝に飛びついた奴にしかわからない。


隣の芝が青いってのは、自分の庭をほったらかしにしないように危惧した両親か、配偶者や芝の持ち主の資本家から言われるものであり、

本当に青かったかどうか語るのが許されるのは

やはり芝に飛びついた奴

経験した奴に限られるのである。




人生ひとり旅。

題の 人生ひとり旅 はよく行っていた店に飾ってある山田洋次監督の色紙に書いてあった言葉だ。


テーマパークはあまり行かないのだけど、人生は冒険だ。みたいな言葉がディズニーかなんかのアトラクションの出口にあったと記憶している。


人生を旅とか冒険になぞらえる言葉は数多くあるのだけれど一体何人が本当に旅を、冒険をしているのだろう。


昔から自分探しの旅というのが嫌いだった。


そんなものは距離とか世界じゃなく主体次第の問題だと思っていたからだ。


では、何故今こんなにも旅に出たいのだろう。


それはおそらく自分を探したいんじゃなく、壊したいからだ。

自分壊しの旅。


当然の話だが自己は環境によって形成され認識される。

自分らしさなんてものは他人と比較することで初めて認識される。

うまれてから死ぬまで独房で暮らす人は自分らしさを認識することもない。


自分らしさを認識するうえで7つの大罪は役に立つ。

昨日、セブンという7つの大罪になぞらえるシリアルキラーの映画を観た。

高慢。

妬み。

強欲。

肉欲。

大食い。

怒り。

怠惰。


これらが自分の生き方を左右していない人間なんていないんじゃないか。

いたとしたら、それはおそらくキリストの生まれ変わりに他ならない。


なぜキリストは産まれたのか。なぜキリスト教は誕生し7つの大罪を禁じたのか。


それは狩猟民だからだ。

自己実現の塊。目標への克服の連続。

ハンターは山に入ってから獲物を仕留めるために雪を掻き分け、足跡を追って道無き道を行く。


生きるために獲得する、獲得するために克服する


これは広くはアングロサクソン、ヨーロッパ、アメリカに通ずる民族性だろう。


対して、農耕民。

自然の影響を受ける、耐え忍ぶ。

天象を克服はできない。後追いになる。

(今は、科学技術を使って、品種改良ができるからむしろ農家が狩猟民のように克服している)


前者の自己実現型だけでは国家、共同体が成り立たないので、行動規範が必要だ。

そこで7つの大罪が産まれた。


日本人は7つの大罪なんかなくても

儒学朱子学の影響はあれ

農耕型国家で五人組など共同体に仕える生き方が

民族に根づいている。


狩猟は追い込み猟などはあれ、1人でもできる。

農耕は1人ではできない。

だから、そうした仕組みができ、根づいた。


だが、7つの大罪を、欲望を捨てていい事はあるのか。

二宮金次郎西郷隆盛は指導者でありながらボロ屋に住み、木綿の服を着て、質素な暮らしをした


今、7つの大罪を、欲望を否定して共同体に飼い慣らす人間は、都内のいい物件に住み、よく仕立てられた服を着て、飼ってる犬まで肥えている。


男は浪漫を捨てたら老化をたどる。

他者に夢や浪漫を強要して投影する。


右手に浪漫、左手に現実とはどこかの企業理念だが、ともかく浪漫を捨てたらおじさんだ。

その見方をすれば、おじさんみたいな若者もいるし、若者みたいなおじさんもいる。


浪漫というのは究極の欲だと思う。

ここで冒頭の探検の話に戻る。


今日、1人の探検家と話した。

探検は征服の歴史だという話を聞いて

なぜ昔からインディージョーンズが大好きなのか

冒険と聞いてワクワクするのかに気づいた。


コロンブスに代表される、多くの探検家は文化を破壊してその土地を西洋化した征服者だ。

ラス・カサスの報告に従って言えば虐殺者だ。


インディージョーンズも、罠に代表される先住民の思考に打ち勝ち、財宝を博物館に持ち帰る。

征服だ。


究極の欲望は征服欲なのだ。

美しい異性と付き合う、征服欲。

高層タワーマンションに住み下を見下ろす征服欲

自分の考えを正当化したいという征服欲


そういう人たちばかりじゃないのはわかっているけど、欲望を全否定して共同体思考に落ち着くのは不健全だ。


狩猟民にならなきゃいけない時はある。


昔、生死を賭ける仕事がしたかった。

そうやって大学を選んだ。

死が遠ざかることが嫌だった。

死を自覚したところ、生への渇望、

そうした環境から芸術は発展した。

絵画も映画も音楽も。


訴える力を持つのは必ずそうした芸術だった。




僕は洋画ばっかり観る。

邦画はやはり、共同体や人間関係にフォーカスする。共感するツールになりつつある。

そうした共同体の陰鬱性とか残酷性を描いたものは名作とされる。


現代美術を見た時に印象に残ったのは

外国人は1人とかできて、黙々と鑑賞して回るのだけれど、日本人の多くは作品を指差した写真をお互いに撮り合ったりしていた。

悲しくなった。


この国はいつからか文化後進国になったらしい。












会話のイニシアチブ

久しぶりに会話のイニシアチブを終始握られた。


世界を何も知らないと打ちのめされた。


大学のアラビア語の教授と久々に会った。


その人は女性なんだけれど、

大学生の時から1人でチュニジアに行って

国立図書館で勉強するような人だった。



森美術館のカフェに行くと

高2の娘さんも来ていて紹介された。


この時点で若干イニシアチブの雲行きは怪しかったわけだが


あんたはいつまで日本にいるの?

から始まり

あんたはレイプされる心配もないから1人で3カ月でも4カ月でも渡り歩きなさいと言われ


あんた男の世界で生き抜くのは上手いかもしれないけどパートナーって大切よと言われ


アムステルダムの娼婦は国の検査を受けてるから公務員みたいなものだからアムステルダム行きなさいと言われ


インドでもなんでも注射は痕が残るし、ダメよ

と言われ


それをこの謎の3人のテーブルで聞き続けた僕は久しぶりに会話のキャッチボールの完全なキャッチャーとなった。


ボールポゼッション的にはベルギー対日本を彷彿とさせた。


とにかく理解が追いつかない状況に久しぶりに置かれた。


最後にこれ私が1番好きなとこのハンカチあなたにプレゼントとハンカチを貰い

花を見たら涙が出てきちゃった

そういうノーブルな男になりなさいと

言われ別れたのだが

なんの比喩なのかすら分からなかった。

浅いようで深いようで多分浅い。


しっかりとハンカチを持って、現代美術を鑑賞しても涙は流れなかった。


はるかぜちゃんじゃないから理解が追いつかないと泣けないタイプなんです。


花を見てたら涙が出ちゃうって

もしかして

花粉症のこと言ってたのかな

俺ブタクサだから花じゃなぁ…

竜馬という病

病い

意味  病気、わずらい


それは死に至らしめるものから、そうではなくとも何らかの支障となるもの。


医術というのがどれだけ発達を遂げても解明されていない病もある。見つかっていない病もある。


今日、提唱したいのは竜馬病。

いやもっと平たく言えば、司馬遼太郎病。


この病を発症すると、

発症者は自分が只者じゃない、俺こそが日本を変える、日本を今一度洗濯したく候などという考えに四六時中苛まれる。


多くの場合、この病を発症した者に共通する原因として挙げられるのが『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』などを読んだことだ。


司馬遼太郎はその描写力、人物の描き方、展開から読者を物語にひきつけるのがうまい。

それがゆえに読者は主人公に自己を容易くというか過剰に投影しやすい。

その結果、自分は天から何かを変えるために産み落とされた者なのだと思うようになる。


しかし、実際にはただ精子が一億総火の玉した挙句卵子に奇跡的にたどり着き産まれたのが私達です





さぁ、症状の段階を追って見ていこう。





phase0


司馬遼太郎を周りに勧めるようになる。

幕末〜維新の歴史に興味を持つ。



ちなみにここまでは単に

本や歴史が好きな健常者。勉強家。


phase1


よく耳をすますと、言葉の端々に小さく控えめなぜよをつけている。


この時点ではまだ憧れと謙遜から控えめな"ぜよ"をつけるのが特徴。それはまるで小鳥のさえずりのような。または海岸で夕暮れ時に男女が交わす甘い口づけのようなどこかおくゆかしく甘酸っぱい"ぜよ"である。


この時点で治療すれば完治は容易いが中々病状の自覚が持てないのが難点。



phase2



概ねこの段階は『竜馬がゆく』5巻目あたりに差し掛かる時期にあたる。

このあたりから自分が竜馬になれる錯覚に陥り、

それまでの控えめな"ぜよ"が幻想だったかのような

強烈な"ぜよ"を語尾につける。

それはあたかも出会った時はあんなに控えめでいじらしく可愛かった異性がいつの間にか尊大な態度をとるようになったかのような。


この段階までくると、むしろ語尾のぜよを強調するために、文自体を弱く落ち着いて発声する。

全ては語尾の"ぜよ"にむけて緻密に計算された会話になる。


この勢いは話し言葉に止まらない。

ワードやラインでも気がつくとぜよと打ち込んでいてback spaceを連打する羽目になる。

最早、ぜよだけで構成された文章が存在する。


この段階の患者同士の会話は全て "ぜよ" のみで成り立つ。


「この後、一件どう?」の"ぜよ?"


「いいね、いこうか!」の"ぜよ!"


「一杯目は生でいいっしょ?」の

メニューの生を指差しながら上目遣いの"ぜよ?"


「わかってるね〜お前」の"ぜよ、ぜよ〜"


云々。


phase3



傘の持ち方が変わる。

腰に刀を帯びているかのように傾向する。

このあたりから患者は凶暴化し、社会性を失いかける。


全てを幕末に例えたがる。

例「お前は平成の桂小五郎だな。」

     「あの子は俺にとってのお竜なんだ。」


云々。


話がわからない者は腰の傘で斬りかかる。

注:ビニール傘で人は切れません。


右手を懐に差し込んで歩くようになる。


二人称がお主、主になる。


お風呂に入らなくなる。フケを撒き散らす。




phase4

内閣総理大臣を目指す。

この時点をもって症状は完成されます。

そうして、昔のあの人はもう帰ってきません。

入浴という概念が取り払われます。



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写真はphase3の友人。

この時に気づいてあげれば、あんなことにはならなかった…







貴方の友達は語尾にぜよをつけていませんか?

この病の恐ろしい点はなかなか自覚症状が持てないということ。

そして気がついた時、それはもう取り返しのつかないところまで来てしまっているのです。


友人が大切ならいち早く異変に気づいてあげましょう。

大切なのは自覚させてあげること。




そのためには主らが周りに目を向けてあげること






このことだけは忘れないでほしいぜよ。




聖者思想は今も…

stand by meを久しぶりに観た。

ドラえもんの方じゃないよ。

Ben E.Kingの方だ。


あれが傑作と言われるのは

あの一種の生々しさが幼少期へのセンチメンタルな感情を呼び起こすからだろう。


小学校まで毎日遊んでいたけど、中学で別れた瞬間にめっきり遊ばなくなるというあの感じ。


人生、その連続だ。高校から大学。大学から社会


全く気を許さない親友も時が風化させる。

ただ、それは完全に無くなったのじゃない。


私達が本を書店で探すとき、DVDでも服でもいい


店には様々なものが陳列されているはずなのに、無意識に気になるものを選出して手に取り、買う


全部の服を試着する人はいないし、全部の本を一つずつペラペラめくる人はいない。


無意識のうちに今自分が求めているものを言語化できないまでも自分で理解しているからこそ、その時の自分に必要なものを選んでいる。


友人も一緒だ。

stand by meみたいなことになるのは

やはり環境が変わり自分が必要なものが変わったに他ならない。


久しぶりにあいつと話したいなって感情は、

無意識のうちに今自分が必要な何かをあいつが持ってるんじゃないかという期待からくる。

面白い話、違う業界の話、フラットな見方…


だから、そういう呑みの誘いは交わり大好き系男子から女子に対するものでもない限り断るものでもない。

必要とされてるうちが花だからだ。


だから、男の人は無意識にその繋がりを逐次ベタベタ連絡して確認する必要はないし、不安がる必要もない。

繋がりは来るべき時にしてまた戻ってくる。

戻らなくてもいい。

そういうある種の淡白さが友情の美学なのではないか。



あぁ、話の入りがそもそも重くなってしまった。

オードブルがビーフカツレツみたいな

前座が立川談志みたいな

乾杯がスピリタスみたいな

エンドロールの最初が監督の名前みたいな

AVの最初がもう本番みたいな


そういう好奇心を掻き立てない話し方をしてるけどまぁこれほとんど自分にあててるからいいよね


さて

指導者の条件って何だろう。

総理大臣、起業家、経営者…云々。

リーダーの条件とは何だろう。民衆が求めるものは?


俺が今したいのは決断力!とか論理的思考力!とかそういう具体的な能力の話じゃない。

(これまでの記事を読んでくれてる貴方は俺が形而上学、抽象大好き人間だと知ってるはず)


能力なんか必要大前提だ。


カリスマ性?

そうカリスマ性。

でもじゃあカリスマ性って何かを100字以内で説明できる人いる?


いないよ。たぶんね。

それほど抽象的な概念なんだ。カリスマ性って。


いや、こういう奴が俺の知り合いにいてカリスマ性があって、とか人を惹きつける力があって

とか言うけどじゃあカリスマ性って何だろう。


それがリーダーに必要な資質であることは間違いないけれど、誰もわからない。


モデルとか芸能人とかが全員カリスマか?

いや同じ人間だよ。綺麗だが努力してるし、同じように悩み、迷う、同じ人間だ。


でも、何でそこにカリスマ性があるかと言うと全部見せてないから。全部を知れないからだ。


24時間自分の生活をライブ配信してる芸能人やモデルに誰がカリスマ性を感じる?

切り取った一部分しか見えないから感じるんだよ


ニーチェはカリスマ性を出したいなら自分を全部さらけ出すことをやめることだ。

みたいな?事言っていたけどこれぞ言い得て妙。


そういう偽りのカリスマという点じゃ世の中蔓延してると思う。


じゃあカリスマ性が何かって考えた時

司馬遼太郎の本にこんな事が書いてあった。

記憶だから曖昧だけど許してくださいね。



中国の苦力  ←知らない人は調べて。

をイギリス人が監督していた時

その中で老人の1人が働かず阿片をプカプカふかしていた。

当然イギリス人監督は怒った。

すると、それまで従順だった苦力達は怒り、イギリス人に歩み寄った。

苦力達は自分の賃金を分け与え、同じ苦力のその老人が仕事をしないで済むようにしていたのだ。

これが聖者思想だ。


煩悩とか、苦しみから解脱した者を聖者とするとこれは絶望的な状況にある時ほど、聖者を必要とするっていういい例だと思う。

むしろ自分達で作り出したんだから。

そういう聖者を民衆は指導者として求める。

特に絶望した時こそ。


戦後すぐとかから高度経済成長にかけての政治的主導者に豪傑が多いとされるのもそれだろう。

ファシストが台頭したのもそれ。


かといって、今が平和かと言われれば安全保障を考えれば全く平和じゃないけど

まぁとりあえず食うものには困らないし、狡猾な国外の脅威が黒船みたく分かりやすいかたちで迫ってはくれないから皆気付かないだけだ。

(まぁ、知らなきゃそれは平和なのか。)


とにかく指導者には聖者としての資質を求める。

勿論、能力に裏打ちされた。

でも、結局悩まない人間はいないからそこを隠すんだけど。

まぁ、じゃあ本当のカリスマなんていないのか。

あれ話がわからなくなってきたな…


ただ、能力プラスアルファーで絶対的に必要なのは人格と性格だと思う。

それと少々の常識からの逸脱。


上が悩んだりするのを見ると下は不安になるのは真理だから、まぁ隠すしかない。


隠して隠し続けたやつがカリスマって呼ばれるのかな結局。

まぁ、ただあるものを出してないのか、本当は無いものを隠してあるようにみせるのか。


本物と偽りのカリスマの差はそこだと思う。


とりあえず、こんな事長々考察してる時点で俺はカリスマじゃないよ。

おはよう。







あえて南を向かない向日葵。

強いひでりを受けた


鮮やかな花弁は


淡い黄色に輝き


その淡さゆえに中央の茶色と


喧騒するわけでもなく


互いに引き立てあっている。


向日葵というと太陽に向かってピンと伸びる


逞しさのようなものが謳われるけれども


色の調和からはどこか女性的なものを感じる。


エレガントなドレスに身をまとう貴婦人のような


自らの引き立て方を知っている


大人の女性。


薔薇なんてのは自分が綺麗だと知っている。


向日葵にそうしたいやらしさはない。


だが向日葵もちゃんと自分で分かっているんだ


自分の魅せ方を。





まぁ、こんな話クソほどにどうでもいい。

そもそもうちに向日葵は生えてない。

探してみたけどピーマンが2つなっていただけだった。

我が家の住人は可食植物以外には毛ほどの興味もないらしい。


向日葵自体あの中央の茶色の部分がトンボの複眼みたいであんまり気持ちいいもんじゃない。


全国のハム太郎は街が向日葵で埋め尽くされぬよう寝る間も惜しんで頑張ってほしい。


向日葵は太陽に向かって咲くというけど

他の花も全部育つ過程では太陽に向かって伸びる割合は高い。


そもそも生きる為にそうなってるだけで

向日葵は太陽に向かってる意識なんか微塵もないだろう。


自分で、おれは太陽がなきゃダメなんだということを自覚している向日葵なんていないだろう。



自己分析、抽象化…


みんな通る道だ。


自己分析と聞くと


よく


自分はこういう事にやりがいを見出す人間だ。


とか


自分はこうしてる時が幸せ


とかそういう感じを連想する。


そうした自己実現社会福祉の落とし所を見つけて人は働く。



真の自己分析とは

本当の自分とは

何だろうか。


それはむしろ経験主義的な価値観に立ち返ることだと思う。


自分が経験してきた環境以上のものは育まれてきていない。


そんな事当たり前だと思うかもしれないが

その経験の裏を考えることが重要なんだと思う。


表層に現れない無意識の何か。

それはむしろ家庭環境だったり幼少期のトラウマだったり。

極端な例では幼少期、近親に性的虐待を受けた女性はレズビアンかSM的嗜好に目覚める確率が高いらしい。

概してこういう体験によって生き方も被害者側に回ると言われる。全世界の男を排撃せよとはならない。

ただ、それは恐らくその体験の汚らわしい男を忘却する本能からくるのじゃないか。



人間は生きていく中で都合の悪い事を忘却するという能力を与えられた。


忘却から真理を引きずり出す事こそ真の自己分析なのではないか。


不快だから忘却する。苦痛を伴うが真の克己とか克服はそこにしか立脚し得ない。

抽象論はやめよう。


僕の一例を用いよう。


自分の場合は"男らしさ"を追い求めていた。

まぁ、男なんてのは自分がなりたい男像に近づくための手段として仕事なり趣味を選ぶ。


ただ自分の場合にはアメリカ文化でいう典型的なマチョイズム思想。


決断力があって、腕力もあって、大酒飲みで、弱きを助け…云々。


そういう分かりやすい男像を追い求めていた。


最近思ったのは家庭環境がこの考えを育んだということだ。


俺の育った環境は完全に女優位の家庭だった。


大手のエンジニアとして勤務していた父は完全に職人気質で高倉健タイプだった。


ただ高倉健と違うのは腹が出て、男前じゃない。

『自分、不器用ですから。』

とでも言おうものなら

母親には早く上に上がって寝てください。

とあしらわれるだろう。

何故かうちでは飼っているオスのパピヨンより低い序列に置かれている時期もあった。

まぁ、パピヨンは可愛いから仕方ないか。

パピヨンはトイレじゃない所でウンチしてもこらこらで済んで笑い話だけど父親が同じことしたら次の日には施設送りだろうし。


とにかく戦前までの家社会を支えていた父権というものが完全に失墜した家庭で育った。


あと話が超越的に面白くない。オチがない。

オチなんていらないと思っても途中に中途半端な親父ギャグみたいなのを挟むから笑わせようとしてるのか論意が分からない。


親父の事は嫌いじゃないし、たまに飲んだりする

息子だから親父のことも尊敬している。

俺もお喋りな男はあまり好かないから別に高倉健でいいと思う。


でも、こうした父権の失墜を目にしてきたことが確実に上にあげた"男らしさ"とか人を笑わせるという事に多大な影響を与えている。


前回の記事に反して

俺だって、ずっと親父に対する反抗心だけでこれまでやってきたのだ。

男らしさという幻想を追い求め、お喋りだし、だらしなくなりたくないから体は鍛える。


ただ逆もしかりで言われてみれば、厳しい父を持つ友人は案外そんな厳格じゃないこともある。


好きな異性のタイプにしろ趣味にしろ

必ず幼少期とか家庭環境が確実に影響を及ぼしている。



ここまでそれでやってきた俺みたいな人間は

今更それを反省しなくていいと思う。


ただ、それをどうして自分は好きなのか、嫌いなのか、その背景を知っている人間はよい教育者、よい父親になれると思う。

同じことを押し付けてはいけない重要性を知っているからだ。

ただ人工知能じゃなく人間がやる限りは完全な教育とか完全な幼少期なんてないし、そもそも何が正解かなんてないけど

それが一元化されて全員が同じバックボーンを持つことになればそれは人間としての死に他ならないね。


俺は俺だ。

という人がいるけど絶対に家庭環境は影響を及ぼしている。


ただ別に俺は家族は嫌いじゃないけどね。

愛してるよ。