22歳の男の濁った目

汚れた目から世界を見てます。

あえて南を向かない向日葵。

強いひでりを受けた


鮮やかな花弁は


淡い黄色に輝き


その淡さゆえに中央の茶色と


喧騒するわけでもなく


互いに引き立てあっている。


向日葵というと太陽に向かってピンと伸びる


逞しさのようなものが謳われるけれども


色の調和からはどこか女性的なものを感じる。


エレガントなドレスに身をまとう貴婦人のような


自らの引き立て方を知っている


大人の女性。


薔薇なんてのは自分が綺麗だと知っている。


向日葵にそうしたいやらしさはない。


だが向日葵もちゃんと自分で分かっているんだ


自分の魅せ方を。





まぁ、こんな話クソほどにどうでもいい。

そもそもうちに向日葵は生えてない。

探してみたけどピーマンが2つなっていただけだった。

我が家の住人は可食植物以外には毛ほどの興味もないらしい。


向日葵自体あの中央の茶色の部分がトンボの複眼みたいであんまり気持ちいいもんじゃない。


全国のハム太郎は街が向日葵で埋め尽くされぬよう寝る間も惜しんで頑張ってほしい。


向日葵は太陽に向かって咲くというけど

他の花も全部育つ過程では太陽に向かって伸びる割合は高い。


そもそも生きる為にそうなってるだけで

向日葵は太陽に向かってる意識なんか微塵もないだろう。


自分で、おれは太陽がなきゃダメなんだということを自覚している向日葵なんていないだろう。



自己分析、抽象化…


みんな通る道だ。


自己分析と聞くと


よく


自分はこういう事にやりがいを見出す人間だ。


とか


自分はこうしてる時が幸せ


とかそういう感じを連想する。


そうした自己実現社会福祉の落とし所を見つけて人は働く。



真の自己分析とは

本当の自分とは

何だろうか。


それはむしろ経験主義的な価値観に立ち返ることだと思う。


自分が経験してきた環境以上のものは育まれてきていない。


そんな事当たり前だと思うかもしれないが

その経験の裏を考えることが重要なんだと思う。


表層に現れない無意識の何か。

それはむしろ家庭環境だったり幼少期のトラウマだったり。

極端な例では幼少期、近親に性的虐待を受けた女性はレズビアンかSM的嗜好に目覚める確率が高いらしい。

概してこういう体験によって生き方も被害者側に回ると言われる。全世界の男を排撃せよとはならない。

ただ、それは恐らくその体験の汚らわしい男を忘却する本能からくるのじゃないか。



人間は生きていく中で都合の悪い事を忘却するという能力を与えられた。


忘却から真理を引きずり出す事こそ真の自己分析なのではないか。


不快だから忘却する。苦痛を伴うが真の克己とか克服はそこにしか立脚し得ない。

抽象論はやめよう。


僕の一例を用いよう。


自分の場合は"男らしさ"を追い求めていた。

まぁ、男なんてのは自分がなりたい男像に近づくための手段として仕事なり趣味を選ぶ。


ただ自分の場合にはアメリカ文化でいう典型的なマチョイズム思想。


決断力があって、腕力もあって、大酒飲みで、弱きを助け…云々。


そういう分かりやすい男像を追い求めていた。


最近思ったのは家庭環境がこの考えを育んだということだ。


俺の育った環境は完全に女優位の家庭だった。


大手のエンジニアとして勤務していた父は完全に職人気質で高倉健タイプだった。


ただ高倉健と違うのは腹が出て、男前じゃない。

『自分、不器用ですから。』

とでも言おうものなら

母親には早く上に上がって寝てください。

とあしらわれるだろう。

何故かうちでは飼っているオスのパピヨンより低い序列に置かれている時期もあった。

まぁ、パピヨンは可愛いから仕方ないか。

パピヨンはトイレじゃない所でウンチしてもこらこらで済んで笑い話だけど父親が同じことしたら次の日には施設送りだろうし。


とにかく戦前までの家社会を支えていた父権というものが完全に失墜した家庭で育った。


あと話が超越的に面白くない。オチがない。

オチなんていらないと思っても途中に中途半端な親父ギャグみたいなのを挟むから笑わせようとしてるのか論意が分からない。


親父の事は嫌いじゃないし、たまに飲んだりする

息子だから親父のことも尊敬している。

俺もお喋りな男はあまり好かないから別に高倉健でいいと思う。


でも、こうした父権の失墜を目にしてきたことが確実に上にあげた"男らしさ"とか人を笑わせるという事に多大な影響を与えている。


前回の記事に反して

俺だって、ずっと親父に対する反抗心だけでこれまでやってきたのだ。

男らしさという幻想を追い求め、お喋りだし、だらしなくなりたくないから体は鍛える。


ただ逆もしかりで言われてみれば、厳しい父を持つ友人は案外そんな厳格じゃないこともある。


好きな異性のタイプにしろ趣味にしろ

必ず幼少期とか家庭環境が確実に影響を及ぼしている。



ここまでそれでやってきた俺みたいな人間は

今更それを反省しなくていいと思う。


ただ、それをどうして自分は好きなのか、嫌いなのか、その背景を知っている人間はよい教育者、よい父親になれると思う。

同じことを押し付けてはいけない重要性を知っているからだ。

ただ人工知能じゃなく人間がやる限りは完全な教育とか完全な幼少期なんてないし、そもそも何が正解かなんてないけど

それが一元化されて全員が同じバックボーンを持つことになればそれは人間としての死に他ならないね。


俺は俺だ。

という人がいるけど絶対に家庭環境は影響を及ぼしている。


ただ別に俺は家族は嫌いじゃないけどね。

愛してるよ。