22歳の男の濁った目

汚れた目から世界を見てます。

藤村操はもういない。

藤村操を知っているでしょうか。

おそらく僕と同年代の人は知らないでしょう。

では質問を変えます。

華厳の滝を知っているでしょうか。

日光の。

知らない人は少ないでしょう。

その華厳の滝が身投げの名所となっていたことも多くの人は知っていることでしょう。

身投げの名所となった契機としては、この藤村操という当時18歳の若者がこの場所から飛び降りたことと言われています。

ここで藤村操について詳しく説明することは面倒だし、それこそ、このご時世ネットで調べればでてくることなので、いささか気乗りしません。

しかし説明しないと興味も持てず、皆さんがこのページをすぐに閉じてしまうことになり兼ねないので説明します。

藤村操は言わばエリートでした。

銀行家の父を持ち、夏目漱石の授業も受けていました。

彼は自殺するにあたり、傍らの木に巌頭之感という遺書を掘りました。

これは興味を持った方は自分で調べてください。

この遺書は一言で言えば厭世観を謳ったものですが、その内容はいささか哲学的であります。

悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て

此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の

オーソリチィーを價するものぞ。萬有の

眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。

我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。

既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の

不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は

大なる樂觀に一致するを。

というのが木に彫られた巌頭之感の内容です。

この巌頭之感が彫られたミズナラの木はのちに警察によって切り倒されました。

藤村の死後、華厳の滝から後追い自殺をしようとする者がたたなかったからです。

4年間で同所で自殺を図ったのは185名に登りました。

彼の哲学的、思想的自殺は大きな社会問題となり日本文学にも影響を及ぼしたと言われています。

ここまでが説明です。長かったですね。

長すぎて僕も一度風呂に入りました。

この死についての考察はさておき

僕は18歳にしてそこまで影響力を持った死を社会に突きつけた表現者としての彼に興味を持ちました。

別に自殺を勧めるわけでもないし、僕自身自殺なんて考えもしません。

ただその表現に興味を持ちました。

近頃も自殺する人は後を絶ちませんが、社会問題として大きく余波を残したケースは僕の印象にありません。

それは一つメディアとネットにより情報伝達の速度が著しくあがったため、人がその情報に飽きてしまうまでの時間も極端に短くなってることが原因と考えられますが。

ともかく哲学的、思想的な自殺というのはあまり聞きません。

ロックミュージシャンは別ですが、若者が社会に訴えかけるために自らの命を絶っても、束の間の同情と、社会の表層のいっときの変化は得られても長くは続きません。

ロックミュージシャンは別としたのは、彼らは間違いなく表現者だからです。

社会に影響を及ぼすのは決まって表現者です。

では、表現とは何か。

僕が考えるに、表現というのはそれまでの個人の生き方(学歴や社会的地位等)や思想も含めて、全てを他人に見せないことだと思います。

人間はそのことを全て知った気になった途端に対象への興味を失います。

(気になったというのがミソです。そういえば亀を食べようとして買ったときの味噌が未開封のままです。)

自己肯定の為に周りに考えを全部吐く人がいます。

吐かなくてもいいことまで必死に吐くところを見ると余程味方が欲しいのだと思います。理解者がいないと不安なのかもしれません。

でも、自分を全部晒していいことなんてあるでしょうか。

親にすら全部晒す必要なんてないのに。

表現者は表現に何通りの解釈の余地を与えます。

『思考の整理学』の、詩や小説はあらゆる解釈や批評を全部含めてその作品を成しているというのと何だか似ている気がします。

翻って言えば、遺書や死に方という行為に解釈の余地を与えることにより、その死は行為から一種の表現となります。

その余地がないと、すぐに行為は飽きられます。

大衆は残酷です。

そう考えると、この高度化された情報化社会において藤村操は存在するでしょうか。

藤村操はでてくるのでしょうか。

やはり難しいのだと思います。

知識人の解釈を明確な形で電波によって受け取った多くの大衆はその解釈のみを正しいものだと捉えて、それをあたかも自分の解釈のようにすり替えて発信します。スピーカー人間です。

(こういう人にはショーペン・ハウエルの『読書について』をお勧めします。)

その表現に考えさせられることも、影響を受けることもなく、ただただ浅はかな同情のみがそこに残るのです。

自殺という側面から表現を考えてみただけで、自殺を訴えるものでもなければ、僕が滅茶滅茶病んでるわけでもないので、悪しからず。