22歳の男の濁った目

汚れた目から世界を見てます。

全ては1匹の亀から。

この記事は自己肯定のため誰かの同意を求めるものでも、誰かを感化したいことを目的としたものでもありません。


思考整理の一つの過程でしかないのです。


です。ます。調にしてるのはへり下る為です。

高圧的口調で話して人が最後まで読むほどの実績をまだ挙げていないからです。


自己との向き合い、その萌芽や端緒は思わぬ所に落ちています。


それを就職活動で見つける人もいれば、表層だけをさらって本当の自分が分からないままもがき続ける人間もいます。

ただ自分探しといっても自分が経験してきたことや思考したこと以上の自分は探したところで姿を見せてはくれません。そもそも自分がない人もいます。


こんな自己啓発じみた発言続けても何も面白くないので僕が考えだしたキッカケを話したいとおもいます。


始まりは住宅街の用水路にいた亀でした。


消費社会に反発したい年頃の自分と友人は村上龍的な考えで狩猟生活に憧れていました。


亀は簡単に釣れました。

人間の顔ほどの大きさの亀でした。

釣り上げた亀を持ち上げ、

「お前に俺は勝った。お前は食われるんだ。負けたやつは殺されて食われても文句は言えないんだ。」

そう叫びました。(大げさではなく。)

次に解体のはずでした。


知らない人の為に説明すると

(まぁこのご時世、亀を食べようとする人は少ないからほとんど知らないでしょうが。)


亀を料理する為にはまず首を落として、そのあと甲羅をノコギリなどで開き身を取り出して調理します。


この首を落とすという行為ができませんでした。

モールスナイフを突きつけると、脊髄反射で激しく抵抗する亀の姿を見ると、こいつを殺してまで食う意味が見つかりませんでした。


アニメーション作品や絵本の亀さんしか知らない人は想像できないでしょうが、

現実の亀さんの噛む力はザリガニの甲殻を噛み砕くほどに強く、首を甲羅に戻す力も驚くほどです。


だから尊敬の念から敬称を僕はつけるわけです。

少々話がそれました。

とにかく亀を殺せず、逃しました。悩みました。


少なくとも菓子パンや加工済みの食肉で育った僕は亀の捕食者となれなかったわけです。


自分達の捕食者について考えました。

人間の捕食者は人間です。

制度しかり、資本主義等の国家形態しかり、通り魔しかり。

そこに適応できず敗れたヒトは淘汰されます。


では、私達に脊髄反射はあるでしょうか?


窮鼠猫を噛むといいますが猫を噛む力はあるでしょうか?

僕はないと思います。

正確に言えばほとんどの若者はないと考えました。


今は制度から外れても生活保護という受け皿があります。死にません。群れの中で助けてくれます。


多くの人は護身術も知らず、ナイフも持ち歩いていません。

だから通り魔に出くわしたら刺されるしかありません。


捕食者の存在を忘れた生き物は現状に不満を覚え、それが群れに悪影響を及ぼします。


皆、受動喫煙にはうるさいのに、不満の受動喫煙には寛容です。

(まぁ、多くの人はそんなもの無視するだけですからね。)


動物は環境に適応できなかった個体は死にます。

でも、ヒトは死にません。

自ら断つ人間もいますが。


社会の仕組みを知らない人間は満員電車に揺られ社会で真っ当に生きる人を見て、あんな大人にはなりたくないと言います。

なりたくないんじゃなくてなれないんです。

それは適応できない個体なんです。


ここに2つのヒトがいます。

不満を吐くヒトと

変える為に力をつけるヒト。


前者は適応できない個体です。

これが犬なら保健所送りでしょう。野犬は人を噛み殺す力を持つため保健所に送られ殺処分されます。

でも概してこういうヒトは群れに切迫するだけの実害も有しないので力も認められず群れから無視されます。

無視されることを恐れた個体は単純な力で変えようとします。つまり暴力で変えようとします。


しかし、人を刺してアピールしたところで実害が認められて保健所に連れてかれるだけで、何ら群れに変化は起きません。

手段としての暴力でなく、暴力しか訴える力を持たない上での暴力だからです。


群れで負けて無視される孤独な年老いたライオンが力もなく、狩りもできない為に人を襲うのに似ています。


後者のヒトは力を蓄えます。

群れに貢献して、生き残る力を学びます。

野生の熊も、生き残ってきた個体は概して巨大です。その力が一目でわかります。

ヒトも同じです。いいスーツを着て、何百万の時計をつけ、いい車に乗る。

一目でわかるわけです。

だから、前から来れば、道を譲ります。

目で追うでしょう。


この場合、一つだけ違うのは動物と違って人間自体は儚く、弱いということです。

熊のように分厚い毛皮も、亀のような甲羅もなく剥き出しの皮膚にナイフの刃先が食い込めば、それだけで終わりなのです。


通り魔も分かっています。

概して誰でもいいから殺したかった。

と供述しますが、

自分より明らかに弱い者ばかりをターゲティングします。

誰でもいいのに、傭兵になって戦場にいきはしないし、反社会勢力の事務所に乗り込むわけでもない。

この点では動物としての本能を失っていないという矛盾をはらんでいます。


とにかくせっかく群れで得た生き抜く力、情報力を持ってしても一度、凶刃にあえば終わりなんです。

だから個体として生き抜く為には、制度の中での適応力、情報力と生き物としての力の両方が必要だと思うのです。

適応力といえば

ここまでは父権が失墜したなかで育った世代の男の話ですが、その環境に適応できない人間はいつまでも男主体で考えます。

女遊びとか浮気がどうこうとか。

浮気の説明に、雄は種を残す可能性を高めねばならないから多くの雌と関係を持つ。

いわば生き物としての本能論です。

強ち間違いじゃないと思います。

ただこれだけ主張するのは都合よく本能を解釈しすぎではないでしょうか。

カマキリは繁殖の後、子供を育てるために雄が雌に捕食されます。

肉食動物でいえば、群れで力を持たない個体が無理やり雌と性関係を持とうとすると噛み殺されることもあります。

全ての雄は雌から産まれます。雄からは産まれません。

役に立たない雄は雌に見放され群から追い出されます。で、死にます。

先程の理論を振りかざすことのできるのは力のある一部の雄だけでしょう。

いつだって野生では捨てられるのは雄です。


これが1匹の亀さんから僕が教わったことです。